mardi 30 décembre 2008

はじめに

医を考える場合、その領域はほとんど無限である。医を医学とすると、科学としての側面、例えば病気にはどのようなものがあり、どのようなメカニズムで出現するのかについて考えなければならないだろう。医を医療と捉えると、技術的側面、人間的側面を視野に入れなければならず、医者と患者を取り巻く問題が前面に出てくる。それぞれの立場で何が根本的な問題になるのか。哲学や倫理について考えを広げなければならなくなる。それはさらに医療を取り巻く社会的な問題へとつながるだろう。

途方もない奥行きである。そのすべてに思索を深めようという野心を持つのは重要だろうが、ここでは上に書いたような広がりに沿ってまず始めることにしたい。最初は科学に重点を置いたところから入り、そこから歴史的、哲学的、倫理的、社会的な考察がおそらくその順で続くものと予想される。未熟であることを恐れず、その時に自らの目の前に現れる問題について考えるという姿勢で歩みたい。

dimanche 14 décembre 2008

ジョルジュ・カンギレムによるバロック


この夏、「正常と病理」 の中で本論に色付けする例として、バロックを持ち出しているところに出くわした。私にとって興味深い指摘であり、美しく書かれているので以下に引用したい。

Les arts plastiques, de la fin du XVIe siècle et du commencement du XVIIe siècle, ont fixé le style baroque, ont libéré partout le mouvement. A l'inverse de l'artiste classique, l'artiste baroque ne voit dans la nature que ce qui est inachevé, virtuel, non encore circonscrit. « L'homme du baroque ne s'intéresse pas à ce qui est, mais à ce qui va être. Le baroque est infiniment plus qu'un style dans l'art, il est l'expression d'une forme de pensée qui règne à cette époque dans tous les domaines de l'esprit : la littérature, la musique, la mode, l'Etat, la façon de vivre, les sciences ». Les hommes du début du XVIe siècle, en fondant l'anatomie, avaient privilégié l'aspect statique, délimité, de la forme vivante. Ce que Woelfflin dit de l'artiste baroque, qu'il ne voit pas l'oeil mais le regard, Sigerist le dit du médecin au début du XVIIe siècle : « Il ne voit pas le muscle, mais sa contraction et l'effet qu'elle produit. Voilà comment nâit l'anatomie animata, la physiologie. L'objet de cette dernière science est le mouvement. Elle ouvre les portes à l'illimité. Chaque problème physiologique conduit aux sources de la vie et permet des échappées sur l'infini ». Harvey, quoique anatomiste, ne voyait pas dans le corps la forme, mais le mouvement. Ses recherches ne sont pas fondées sur la configuration du coeur, mais sur l'observation du pouls et de la repiration, deux mouvements qui ne cessent qu'avec la vie. L'idée foncionnelle en médecine rejoint l'art de Michel-Ange et la mécanique dynamique de Galilée.

Georges Canguilhem, Le Normal et le pathologique

16世紀終わりから17世紀初めにかけて、造形芸術はバロック様式を定着させ、運動をあらゆるところに広く解き放った。古典芸術家とは反対に、バロックの芸術家は自然の中に未完成で表面に現れない、まだ境界が定かではないものしか見なかった。「バロックの人間は今あるものではなく、これから現れるものに興味を示しめす。バロックとは芸術の様式を遥かに超えるものである。それは当時の文学、音楽、流行、国家、生き方、科学などの精神のあらゆる領域を支配していた思想の一つの形の表現である」。16世紀初めの人間は解剖学の基礎を築き、生物の静的で限定された側面を大切にしていた。ヴェルフリンがバロック芸術家は目ではなく視線を見ると言ったが、シゲリストは17世紀初めの医者のことをこう言っている。「彼は筋肉ではなく、その収縮やそれが及ぼす効果を見る。ここに”動的解剖学”、すなわち生理学が生まれたのである。この科学の対象は動きである。これが無限への扉を開き、生理学のそれぞれの問題は生命の根源に至り、無限を見晴らすことを可能にする」。ハーベーは解剖学者ではあったが、体の中に形を見るのではなく動きを見たのである。彼の研究は心臓の形態に基づくものではなく、脈拍と呼吸の観察と命とともにしか停止しないこの二つ運動に基づいている。医学における機能という概念は、ミケランジェロの芸術とガリレオの動的力学を結び付けるのである。

ジョルジュ・カンギレム著「正常と病理」 (拙訳)




lundi 27 octobre 2008

ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーに触れる



散策に出る時に手にしたヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー (Viktor von Weizsäcker: 21 April 1886 - 9 January 1957) の「病因論研究―心身相関の医学」("Studien zur Pathogenese")をメトロとカフェで読む。今回は解説から始めた。

彼はアウトサイダー的な立場を万事において取っていたという。そんな中、弟子や学会、教会に対して辛辣な言葉を吐くという複雑な人間であったようだ。また、保守的で論理的な社会が革新を排除しようとしていたところからか、ナチの台頭には革命の期待を抱いていた節がある。さらに、ナチによる優生手術、遺伝的精神病者の安楽死に対しても否定的ではなかったし、むしろ遺伝疾患に対する強制避妊手術に対しては歓迎の意を示していたという。また全体のための個の犠牲にも同調していた記述が残っている。その後、このような物質主義的ダーウィニズムを非難するようになるが、、、彼への興味は病気をどのように見ようとしていたのかという一点であったが、新たに社会との複雑な関係が現れた。これから問題になるだろう。

豊富な臨床経験から病気に対する考えが次第にまとまりを見せてくる。彼の考え方は、心の活動を身体面から説明しようとしたり(身体因論)、逆に身体の変化を心の側から説明しようとする心因論でも、心と体が相互に反応しあうという心身平行論でもなかった。むしろ、心と体を持つ有機体が環境に接する時に相互に代替可能であるとする心身相関論を基にしているという。さらに原因と見えるもの、結果に見えるものが実はつながっていて環を成す形態をとっているとするゲシュタルトクライス "Gestaltkreis" という概念を提唱することになる。

この本の中に少し立ち止まるところがあった。それは次のような記述に出会った時である。

「われわれは、いろいろな機能をもっているから生きているのではない。生きているからいろいろな機能をもっているのである。機能や活動が障害されるから病気になるのではない。病気になるから機能や活動も障害されるのである。」

これをどのように解釈すればよいのか、考えさせられたのである。まず、生きていること、病気になることに重きが置かれている。科学的に見ると、例えば病気の主原因が一つの遺伝子の変化や明らかな外因であるような場合は機能が障害されるから病気になると考えてよいだろう。しかし、それ以外の多くの病気については彼の見方には真理があるように感じる。病気に主体を置き、病気になることは健康な時とは別のやり方で環境に対することになると考えている。病気に創造性を見るカンギレムにも通じるようだが、そこまで積極的に解釈しているのかもう少し読んでみないとわからない。

また多くの病歴を見ていく中で、心と体の基盤となっている患者の生活史に目を向けなければならないという考えに至っている。つまり、病気をその人間の人生におけるひとつのドラマとして捉え直さなければならないという立場である。病気の分子論的な解析、心理的な解析という局所的な視点ではなく、患者を長い時間軸の中に置き直して「なぜよりによって今なのか?」("Warum gerade jetzt?")を問わなければならないとしている。訳者らは、非線形理論、カオス理論の医学への応用も視野に入れていかなければならないが、そのためには両者の脱皮が必要だと考えている。

今日のお話は、ヴァイツゼッカーへの入り口に着いたようなものである。
彼の人間像とあわせてその考えをもう少し読み進みたい。







dimanche 19 octobre 2008

インパクト・ファクターの考え方



ノーベル賞受賞に際して、現在の科学のやり方が本末転倒になっているのではないかということを別ブログで書いた。簡単に言うと、どのような研究がよい研究かということについて考えることなく、インパクトの高い雑誌に発表された論文は優れた研究であるとされていることに問題はないかということであった。よい研究だからどこそこの雑誌に出たというのではなく、その雑誌に出たからよい研究であるとされていて、よい研究の条件にその結果が含まれる論理矛盾に陥っていると指摘した。このような状況になると、成された研究の中味を研究者が吟味し議論することがなくなり、他人任せの評価に委ねることになる。これで本当に画期的な研究が生まれるのか、溌剌とした科学が生まれるのかという疑問を下村脩氏の受賞対象になった研究を見て提示した。また以前に Martin Raff 氏がインパクトの高い雑誌のレフリーのやり方に疑義を呈した時に賛意を示した。

今日届いた10月10日発行の雑誌 Science の Editorial でドイツの Kai Simons 氏が同様の考えを発表している。また同じ号の Letters 欄には NIH の Abner Notkins 氏がインパクト・ファクター (IF) の悪弊を除き科学が本来の道を歩む方法として三つのことを提案している。第一に、研究所はIFを評価の対象とはしない宣誓書を出すこと、第二に研究室のヘッドも同様の宣誓書を作り、メンバーと堅実な研究の進め方についてディスカッションをすること、第三には雑誌社はIFを一切公表しないことである。これらが実行されればかなりの効果は期待できそうである。ただ雑誌の商業主義が今の傾向を煽っているところがあるので実現するかどうかは定かではないが、少なくとも科学者の側だけでもその姿勢を変えることができれば、大きく動き出す可能性は高いのではないだろうか。

以下に Simons 氏の発言の要約をした。詳細は原文を参照願いたい。

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IF が研究の質の反映ではない。雑誌がレビューを取り入れると引用回数が増えるので、雑誌の方がIFをあげる工夫をしている。驚くべきことに訂正の引用まで計算されている。なぜこれほどまでにIFが力を持つようになったのか。それが研究者の論文が評価され、研究費の配分から昇進など研究者や研究所の将来を決めるようになったからである。従ってIFの高い雑誌に出そうとして時間の浪費と研究者のやる気を削ぐことになる。

幸い新しい試みも始っている。Howard Hughes Medical Institute では研究者の選んだ限られた論文について詳細に検討するようになっている。また雑誌の方でも、例えば PLoS One などはある分野への貢献度を主観的に考慮することなく、テクニカルにしっかりしているものであれば掲載することにしている。European Molecular Biology Organization でも研究者のやる気を削ぐようなやり方ではないレビューの方法を導入しようとしている。

どこに発表された論文であろうが、研究そのものの質を研究者が評価しなければならない。しかし、出版社、研究者、研究機構すべてが真剣にこの問題に取り組まなければいつまでもこの数字に怯えることになるだろう。

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Science 10 October 2008:
Vol. 322. no. 5899, p. 165

Editorial
The Misused Impact Factor
Kai Simons*

Research papers from all over the world are published in thousands of Science journals every year. The quality of these papers clearly has to be evaluated, not only to determine their accuracy and contribution to fields of research, but also to help make informed decisions about rewarding scientists with funding and appointments to research positions. One measure often used to determine the quality of a paper is the so-called "impact factor" of the journal in which it was published. This citation-based metric is meant to rank scientific journals, but there have been numerous criticisms over the years of its use as a measure of the quality of individual research papers. Still, this misuse persists. Why?

The annual release of newly calculated impact factors has become a big event. Each year, Thomson Reuters extracts the references from more than 9000 journals and calculates the impact factor for each journal by taking the number of citations to articles published by the journal in the previous 2 years and dividing this by the number of articles published by the journal during those same years. The top-ranked journals in biology, for example, have impact factors of 35 to 40 citations per article. Publishers and editors celebrate any increase, whereas a decrease can send them into a huddle to figure out ways to boost their ranking.

This algorithm is not a simple measure of quality, and a major criticism is that the calculation can be manipulated by journals. For example, review articles are more frequently cited than primary research papers, so reviews increase a journal's impact factor. In many journals, the number of reviews has therefore increased dramatically, and in new trendy areas, the number of reviews sometimes approaches that of primary research papers in the field. Many journals now publish commentary-type articles, which are also counted in the numerator. Amazingly, the calculation also includes citations to retracted papers, not to mention articles containing falsified data (not yet retracted) that continue to be cited. The denominator, on the other hand, includes only primary research papers and reviews.

Why does impact factor matter so much to the scientific community, further inflating its importance? Unfortunately, these numbers are increasingly used to assess individual papers, scientists, and institutions. Thus, governments are using bibliometrics based on journal impact factors to rank universities and research institutions. Hiring, faculty-promoting, and grant-awarding committees can use a journal's impact factor as a convenient shortcut to rate a paper without reading it. Such practices compel scientists to submit their papers to journals at the top of the impact factor ladder, circulating progressively through journals further down the rungs when they are rejected. This not only wastes time for editors and those who peer-review the papers, but it is discouraging for scientists, regardless of the stage of their career.

Fortunately, some new practices are being attempted. The Howard Hughes Medical Institute is now innovating their evaluating practices by considering only a subset of publications chosen by a scientist for the review board to evaluate carefully. More institutions should determine quality in this manner.

At the same time, some publishers are exploring new practices. For instance, PLoS One, one of the journals published by the Public Library of Science, evaluates papers only for technical accuracy and not subjectively for their potential impact on a field. The European Molecular Biology Organization is also rethinking its publication activities, with the goal of providing a means to publish peer-reviewed scientific data without the demotivating practices that scientists often encounter today.

There are no numerical shortcuts for evaluating research quality. What counts is the quality of a scientist's work wherever it is published. That quality is ultimately judged by scientists, raising the issue of the process by which scientists review each others' research. However, unless publishers, scientists, and institutions make serious efforts to change how the impact of each individual scientist's work is determined, the scientific community will be doomed to live by the numerically driven motto, "survival by your impact factors."

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*Kai Simons is president of the European Life Scientist Organization and is at the Max Planck Institute of Molecular Cell Biology and Genetics in Dresden, Germany.




lundi 13 octobre 2008

アレックス・ローゼンバーグ氏で哲学と科学の接点を想う



新学期の最初の週が終った。ゆったりした日曜の朝である。昨日はデューク大学の科学哲学者アレックス・ローゼンバーグ氏(Alex Rosenberg)のセミナーを聞く。テーマは、発生遺伝学における還元主義の問題について。正式には、以下の通り。

"Five challenges to genocentrism in molecular developmental genetics"

まず言葉の定義から始った。

"genocentrism" (遺伝子中心主義):発生の説明を還元主義 (reductionism) で説明しようとすること。遺伝子が発生プログラムを規定し、そこで特別の役割を演じるとする見方。

"reductionism" (還元主義):生物学の説明が分子機構の詳細を明らかにすることにより改善され、その情報が加わるほどその完成度が増すとする考え方。還元主義と対するものとして、生物学には法則がない(メンデルの法則以外)とする考え、物質的基盤のはっきりしない欲望、信仰、魂などの存在を排除する eliminativism の否定、それにボトムアップ型の研究などをあげていた。

彼が指摘した遺伝子中心主義に対する挑戦は以下の5つになる。

1)Contra-induction
2) Anti-reductionism
3) Contra-genocentrism
4) Against the informational programming role of the genes
5) Replacing the univocal gene

発生のプログラムに細胞全体が不可欠であるとすれば、単純に遺伝子や分子だけで説明できるのか。脊椎動物の発生が蠅と同じではないはずである。遺伝子そのものの中には生物学的な情報までは入っていないのではないか(遺伝子産物が細胞の中でどのように振舞うのかまでの情報はないのではないか)。 epigenetic transmissionをどう捉えるのか。遺伝子以外の要素(環境など)が重要であるというholisticな立場が必要なのではないか。 natural selectionは還元主義にとって障害になるのではないか。自然選択は物理的な法則に基づく過程ではなく全く偶然に任されたものであり、物質主義者とは相容れないのではないか。

このような還元主義への疑問が出されているが、実際の科学の営みは最初に掲げた還元主義に深く根ざしていて、最早如何ともし難いものがあるかに見える。それ以外に科学の進む道はないかに見える。しかし、そこから全体の理解につながる視点が得られるだろうか。そして科学が全的理解に辿り着く新たな道を見つけることができるのだろうか。それが不可能であるとわかった時、科学と哲学の接点が見えてくるように思えるのだが、、。




vendredi 8 août 2008

日本学術会議 「基礎研究支援拡充」 に関する提言を読んで

アテナ (Pallas Athéna)
Zeus の娘
古代ギリシャの知性、芸術、工業の象徴にして
智慧と真実への愛(philosophie)の化身

先日、日本学術会議がまとめた基礎研究充実に向けた提言を読む機会があった(提言「我が国の未来を創る基礎研究の支援充実を目指して」 日本学術会議 科学者委員会学術体制分科会 2008年8月1日)。基礎研究が応用研究に押されて将来の日本の研究が先細りになることを危惧していることが伝わってくる。その方向性については賛成である。ただ、一つだけ違和感を覚えるところがあり、それがきわめて重要であると考えているので敢えてここで取り上げることにした。

それは、この提言の考えている科学の内容である。そこでは科学を「知ること」、すなわち知的創造活動の総体と定義している。私の目から見ると、この基本の捉え方が強く言うと余りにもお座なりで思索のあとが窺えない。ここの定義こそもう少し具体的でなければならないだろう。科学という活動の意味を捉え直す必要があるのではないだろうか。それが万人に理解されて始めてすべてが動き出すような気がする。

そのためには科学の発祥の地、その元になる哲学の発祥の地で起こったことから始めなければならないだろう。そうすると、科学がどういう営みなのかということが、より具体的に分かるようになる気がする。それは、広く人間が持つ、持っていなければならないだろうものの見方から始ったのではないだろうか。科学の基本的な性質は、何ものにも囚われないものの見方、根本から考えるものの捉え方、曖昧なものを排除する批判的なものの見方を教えるものであると私は理解している。歴史を辿ると、科学が「知る」という結果ではなく、そこに至る過程の「ものの見方・考え方」を学ぶことであることが明らかになるはずである。これこそ今われわれがあらゆる分野で必要としているものではないだろうか。

そういう理解を促すためには、大学教育はもちろんだが、それ以前の教育において文系・理系を超えた基本的な考え方、「科学精神」の存在を理解することから始めなければならないだろう。その精神を学ぶためにこそ科学が最も有効であることを認識する必要があるのではないだろうか。科学を実験室の中だけに閉じ込めた見方をしていると、いつまでも今の状況から抜け出せないように思う。つまり、上に述べた考えを持っている人が偶然役人や政治家、ジャーナリストや芸術家や会社員になり、あるいは偶然に実験室に入る状況でなければ、次の世代も現在と同じようなものの見方しか受け継がれないような気がする。古代ギリシャで起こったことを過去のこととして歴史の中に閉じ込めておくのではなく、そこから取り出しその精神を現代に蘇らさなければならないだろう。その基本があって初めて、科学が本来の輝きと求めている「重厚」さを持ってくるのではないだろうか。

今回の提言は現役の科学者が研究に忙しい合間を縫って成されたものと想像され、敬意を表さなければならないだろう。ただ、科学という大きな問題を論じるには、ここでも言及されている文理に跨る成果を生かすことが求められるように思う。いずれにしてもこの問題は単に狭義の科学の将来を議論するために矮小化されるべきことではなく、日本社会の根底に横たわる大きな課題の実体として捉えるべきものでもあると考えている。文理を超えた広い議論が起こることを期待したい。





dimanche 20 juillet 2008

C.P. スノー 「二つの文化」 を読む


今日は届いたばかりの CP Snow の名著 "The two cultures and a second look" (Cambridge University Press, 1987)の第一部 "The Rede Lecture, 1959" を読む。学生時代に買ったような気もするが、どこか遠くの出来事のように感じていたのか読んだ記憶はない。今回は興味津々で、いつものようにバルコンに出て彼 の言葉を追う。 "The two cultures" の発表は1959年だが、その3年前に雑誌 New Statesman にスケッチを発表している。またこの本のタイトルにもあるように、初版の4年後の1963年に新たな見解を発表している。

著者 Snow は科学のトレーニングをケンブリッジ大学で受け、職業として物書きになったためにこのような視点が得られただけで、同様のキャリアがあれば同じようなことを考えただろうと述懐している。若き日に物理学が花開くのを傍から見ていたことや1939年の寒い朝にケタリング駅で WL Bragg に会ったことも大きな印象を残していて、その後科学から目を離すことはなかったようである。その間、文学と科学(文理:literary vs scientific)の間を行き来するうちに "two cultures" と彼が名づけた現象に気付くようになる。それは大洋を隔てたほどのもの、あるいはそれ以上のものがある。大西洋を渡ればそこでは英語が話されていて話は通じるが、文理の隔たりは行き着いたところでチベット語が話されているようなものだと喩えている。

科学者は未来が骨の髄まで染み付いている(Scientists have the future in their bones)が、文系は本質的に反科学的(anti-scientific)であり、彼らにとって未来は存在しない(The future does not exist)。この傾向は理から文へ移行する過程で、そのニュアンスがわかってくるようである。自らを振り返っても、科学の未来信仰、楽天性は益々明らかになってくるし、文系はむしろ過去にまず目が向かうように感じている。むしろ、そこにしか確実なものはないという哲学があるかに見える。これは科学者個人のレベルでは必ずしもそうではないにせよ、科学という営みを見た場合に否定しようがない。

ここで取り上げられている逸話も興味深い。例えば、話好きのオックスフォード大学の学長がケンブリッジ大学での食事会で会話を楽しんでいる時、その話はさっぱりわからないという声を聞き驚く。そこで助け舟を出したケンブリッジ大学の学長の言葉は、「彼らは数学者ですから」 というもの。また、文系の人が考えている "intellectuals" の中には、Rutherford も Eddington も Dirac も Adrian も入っていないらしいという話を聞いたというエピソードもある。それから、彼の観察によると文理の乖離は特に若い層で大きく、時には敵意にも近いものを感じると書いてある。理の方に勢いがあり、文に比して就職率もよい。当時は物理学が理を代表していたのかもしれないが、それが今は生物学に置き換わっただけで、その本質はほとんど変わっていないかに見える。いや、むしろ程度が激しくなっているかもしれない。文系の人に熱力学の第二法則は?と聞くといやな顔をされるが、同様のことは理系の人にシェークスピアを読んだことはありますかと聞くのと同じことだろう。

このような文理の分離がなぜ問題なのか。それは単に残念なこと(a pity)というだけではなく、もっと酷いものだと彼は考えている。それは二つの異なるもの、異なる原理、異なる文化がぶつかり合うところにしばしば創造の機会が訪れるからだ。しかし、その二つが出会う機会がそもそもないのである。これは双方にとって、われわれにとって大きなものを失っていることになる。この点は自らを振り返っても痛いほどわかる。もし科学哲学における厳密な思考方法について少しでも知っていたら、過去の科学者がどのように問題と対峙していたのかを知っていたら、仕事の進め方があるいは変わったかもしれないという具体的な影響を想像できるからだ。

このような二つの文化の問題はイギリスに限らず西洋すべてに行き渡っているとしているが、東洋でも例外ではないだろう。その意味では人間の頭の働き方の普遍性を示していると言える。半世紀を経ても傾聴に値する声である。しかし、話はそこで終らない。このような国内、あるいはある文化圏の二つの文化の乖離はあくまでもローカルな問題で、それ以上に重要なことがあると考えていることがわかる。それは工業化した国とそうでない国との乖離である。もし西側が非工業国に金銭的、人的な支援をしなければ、共産主義がいずれそこに入っていくことになるという危惧を抱いている。現実的な人は、人間の本性を考えた場合に自らのキャリアを犠牲にしてそのような計画にどれだけの人が参加するのか疑問だと反論するが、それでも引き下がらない。西側に残された時間はないとこの講演を結んでいる。1959年のことである。

過去の東西問題はある程度片付いているが、南北の格差拡大はさらに広がっているかに見える。これから求められるのは、依然存在している文理という二つの文化間の真空地帯に分け入り、そこに外気を入れることだけではなく、世界を取り巻く文化の乖離にも目をやって行かなければならないだろう。途轍もなく大きな21世紀の課題である。





lundi 14 juillet 2008

モンテスキューとともに気候を考える


(18 janvier 1689 - 10 février 1755)


最近、ニーチェの風土と精神に関する以下の文章を仏版ブログに出した。

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栄養の問題と密接に関係しているのは、土地と風土の問題である。誰にしろ、何処に住んでも構わないというものではあるまい。ことに全力を振りしぼることが必要である大きな使命を果たさなければならない者は、この点できわめて狭い選択しか許されていない。風土が新陳代謝に及ぼす影響、新陳代謝を阻害したり促進したりする影響は非常に大きいために、いったん土地と風土の選択を誤ると、自分の使命から遠ざけられてしまうばかりでなく、使命そのものをわが身に授けもらえないということが起こり兼ねないのである。つまり、彼自らが使命に面と向かうことを一度もしないで終ってしまうわけだ。こういう人の場合、動物的 活力が十分に漲り溢れ出していないので、最も霊的な界域に洪水のように押し寄せて行くあの自由、かくかくのことをなし得るのはただ吾れ独りのみ、と認識するあの自由な境地には、到達しがたい。

・・・・・どんなに小さな内臓の弛みでも、それが悪い習慣になってしまえば、一人の天才を凡庸な人 物に、何か「ドイツ的な存在」に変えてしまうには十分である。ドイツの風土にかかったら、強健な内臓、英雄的素質を具えた内臓でさえも、無気力にしてしま うのはいとも簡単だ。新陳代謝のテンポが速いか遅いかは、精神の足がす速く動くか、それとも思うように動かないかに正確に比例している。「精神」そのもの がじつはこの新陳代謝の一種にすぎないのだからこれまた当然である。

ひとつ比べ合わせてみて頂きたい。才気に富んだ人々が住んでいたかま たは現に住んでいる土地、機智と洗練と悪意が一体となって幸福の要素を成していたような土地、天才がほとんど必然的に住みついていたような土地、等々を。 どれもみな空気が素晴らしく乾燥した土地ばかりだ。パリ、プロヴァンス、フィレンツェ、イェルサレム、アテーナイ----これらの地名は何かあることを証 明している。すなわち、天才の成立は乾燥した空気や澄み切った空を条件としていること----迅速な新陳代謝を、いいかえれば法外とさえいえる大量の力を 繰り返しわが身に取り込みうる可能性を条件としていること、それらのことを証明している。

私はある自由な素質を持つ秀でた精神が、たまた ま風土的なものに対する本能的鋭敏さを欠いていたというそれだけの理由で、狭量になり、卑屈になり、ただの専門家になり下がり、気むずかし屋で終ってしまったケースを、目の当たりに見て知っている。そして、私自身にしてからが、病気になったお陰で、否応なく理性へと、現実の中での理性に関する熟慮へと強 いられたのだが、もしもこの、病気によって強制されるということが起こらなかったならば、結局は右と同じケースになっていたのかもしれない。

ニーチェ 「この人を見よ Ecce Homo」 (西尾幹二訳) 
(段落改変をしてあります)

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そうしたところ、モンテスキューに も気候の理論(La théorie des climats)というのがありますよ、というコメントが届いた。モンテスキューと言えば、中学か高校で習った「法の精 神」(De l'Esprit des lois)というキーワードしか残っていないが、それが急に息を吹返してくる。自分の中が何かで洗われるという印象がある。こういう出会いにはいつも岩清 水が湧き出るような悦びが込み上げてくる。

18世紀の啓蒙の時代。理性と科学と人間尊重という新しいパラダイムが生れたこの時代は、ディ ドロとダランベールの百科全書やルソー、ヴォルテールの時代でもあった。モンテスキューは多種多様な法律がそれぞれの国の人びとの思いつきで作られている のではなく、ある法則に則っているのではないかと考え、その法則を説明しようとしたのが「法の精神」となった。その要因として、物理的なもの(風土など)、道徳的なもの(宗教、伝統、風俗く・風習など)を考えていた。ここに出てくるのが、今日のテーマになる気候と法律、政治体制との関連の分析である。

彼は決定論者ではなかったが、気候がそこに住む人の気質や習慣に影響を及ぼすと信じ、そのことを考慮に入れた法による支配が成されなければならないと考えて いた。例えば、気温の影響は大きく、寒い環境の人間は頑強で大胆、知識も多く快楽を求める傾向が少ないが、暑い国の人間はだらしなく臆病で決断力がなく、 情熱的で快楽に溺れやすい。前者は王政を持ち、後者は専制を好む傾向がある。

また、土壌の豊かさも政治形態に影響を及ぼすと考えていた。王政は土地の肥沃なところに多く、共和制は土地の痩せたところによく見られたが、モンテスキューはその理由として以下の三つをあげている。第一に、肥沃な土地の人間は現状に満足しているため、自由を求めるよりはむしろ安全を求めること。第二に、肥沃な国は常に平坦な土地の上にあり、人民はより強い力に抗う ことはできない。征服しやすいし、一旦屈服してしまうと彼らの精神に自由は戻ってこない。モンテスキューは王政は共和制よりも征服戦争をする可能性がある と考えていた。第三には、痩せた土地の人は生きるために必死に働かなければならず、勤勉で真面目、勇敢で辛苦に慣れており、戦争に適している。したがって、彼らは自らの防衛に長け、侵略者から自由を守ることができるとしている。痩せた土地が彼らにこのような特質を与えていることになる。

モンテスキューはアジアや日本の状況についても言及している。アジアになぜ専制が多いのか、そこにはヨーロッパと異なる2つの理由がある。第一に、アジアには緩衝になる地域がない。そのため、北の寒冷地帯がヨーロッパよりも南に達していて、その移行が急激ですぐに熱帯に入ってしまう。従って、勇敢で活力溢れ る者が怠惰で女々しく臆病な者たちを直ちに制圧してしまうのだ。これに対してヨーロッパでは、北から南に向けて徐々に気候が変わるため、強い国と強い国が 対峙して存在している。第二の理由として、アジアはヨーロッパに比して平野が広いことがあげられる。山岳地帯が離れ、川も侵略の障害にはならない。ヨー ロッパには小国が乱立しているので一国がすべてを制服することは難しい。アジアでは巨大な帝国が生まれ、そこは専制の温床になりやすいのである。

モンテスキューの解析がどの程度的を射ているのかはわからないが、気候、風土や地理的条件がわれわれの政治行動や考え方に影響を及ぼしているという点には同 意できそうな気もする。決定論に立つわけではないが、それほどまでに大きな要素である印象を拭えない。日本の若者を世界の同年代の人と比べて際立って見え るのは、ヨーロッパはいうに及ばず例えば中国、インドの若者を比べた時でさえ世界の中の自分、日本を世界の中で相対化する視点が非常に希薄なことである。 ある意味では自分の若い時とも重なるような気もするが、自由とか社会体制とか国家という視点の中で自らを見るところもないように見えて仕方がない。

私の場合には、まず自分のことをうまく説明できないという症状で現れたが、時代を経ればこのようなことはなくなるのではないかと思っていた。しかし、どうも そうではなかったらしい。まともな教育が成されていると仮定した場合、教育だけではこれらの条件を乗り越るところまで行かないのかもしれない。自然がわれ われに課している目に見えない影響はそれほどまでに大きいのかもしれない。日本の世界における存在感が国内でしばしば問題にされるが、日本という家の中に 入ってしまえばそんなこと(外とか他ということ)はどこ吹く風と言わんばかりである。日本は肥沃な土地なのだろうか。再び外に出て遠くから眺める機会を得 た今、そう感じることが益々増えている。もちろん決定論には組したくないのだが、この問題はほぼ絶望的な眺めにさえ見えてしまうのである。


ところで、今回のような出会いでいつも感じるのは、モンテスキューの考えはずーっと前からそこに転がっていたということ、それは当然のことながら専門家にとってはいわば当たり前のこと、知らなかったのはそれを取り上げている自分だけということだ。この世は自分の知らないことで溢れているということに改めて目を見張る。われわれはその膨大な宝の山から自らに飛び込んでくる何か拾い上げている存在だろう。言ってみれば、人間はその組み合わせの違いによって特徴付けられている存在であり、どの組み合わせを取っても同じものはないと推測される。この厳粛な事実が身に沁みると、人と会うということがどれだけ貴重な経験なのかがわかってくる。




dimanche 13 juillet 2008

"Never Retire" by William Safire



数日前に読んだ資料の中で、私にとっては懐かしいこの方に思わぬ形で再会した。

William Safire (born December 17, 1929)

私のニューヨーク時代、ニューヨーク・タイムズ(NYT)で彼のコラムを読み、そこから本になった "On Language" にもよくお世話になった。安定した感じの人という印象。私が若い時のNYTの記者と言えば、ジェームズ・レストンが記憶に残っているが、今では彼がそのようなNYTを象徴するような立派な、しかし親しみのある記者になっているのかもしれない。

今回彼が再び浮き上がってきたのは、"neuroethics" という言葉の生みの親ということにされていることを読んだからだ。いつから倫理などに興味が湧いていたのか知らないが、出版された大統領生命倫理評議会報 告書に序文まで書いている。(日本語訳:「治療を超えて : バイオテクノロジーと幸福の追求 : 大統領生命倫理評議会報告書 」)。2005年にはNYTを辞め、今はニューヨークに居を構える神経科学を中心にした科学、健康、教育をサポートするDana Foundationの理事長として活躍している。現在78歳。以下のビデオでもわかるように、まだまだ元気である。アメリカの学者も精神が活発に動いている様子が伝わってきて気持ちがよい。

"Science, Ethics and the Law"

これから今日のタイトルになったお話になる。この言葉は彼がNYTを辞める時(2005年1月24日)のコラムのタイトルである(原文はこちらです)。そこには、最後までしっかりと生きるためにはどうしたらよいのかという彼の考えが独特のユーモアを交えながら綴られていて元気になる。3年以上も前のものなのですでに読まれている方もいるとは思うが、簡単に紹介したい。

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数年前に、DNAの構造の発見者であるジェームズ・ワトソンが私にこう言った。

"Never retire. Your brain needs exercise or it will atrophy"
 (決して辞めるな。脳はトレーニングが必要、そうしないと萎縮するぞ)

現在75歳で至って健康。誰も辞めろとは言わないし、最近書いた記事には32年間で最高の反応があった。それなのになぜ辞めるのか。

50年前にインタビューした晩年のブルース・バートンがいつも新しいことにチャレンジすることが大切と言ったことに対して、私がこうまとめた。それ以来、彼の言葉として使っている。

"When you're through changing, you're through."
 (変わることを止める時、人生は終わるのだ)

この二つのアドバイスをまとめると、次のようになるだろう。

"Never retire, but plan to change your career to keep your synapses snapping"
 (決して辞めるな。そして、シナプスが活発に活動し続けるようにキャリアを変える工夫をしなさい)

この一世紀で寿命は30年も延びた。すでに聖書にある70歳という限界も優に超えている。脳がおかしくなっているのに体だけこの世に留まっていても自分だけでなく社会の負担になるだろう。寿命が延びて意味があるのは、精神の命が保たれている場合である。

Dana 財団では neuroethics のフォーラムを開いて、討論する機会を作っている。そこで問題になるのは次のようなことだ。

● 脳の病気を治療するばかりではなく、その機能を高めようとするのは正しいか?
● 成長ホルモンで身長を調節すべきか?
● クローンは道徳的に正しいか?
● 薬で幸福感を得るのは真の幸福を蝕むか?
● 早期に芸術に触れると数学、建築、歴史などに対する認識過程に影響があるか?

最後の問に対しては、新しいイメージングの研究により肯定的な答えが出ており、学校における芸術教育の予算にも影響を与えるまでになっている。

人 生の最後に必要なのは、新鮮な刺激を保つこと。そのためにはキャリアの早い時期からリラックスするための余技(avocation)を始めること。それが 精神を働かせることになる最終ステージでの仕事(vocation)に必要となるのだ。仕事(job)を辞めて精神的な危機に陥らないためにも。爽快な二 度目の風を捉えるためにも。

"When you're through changing, learning, working to stay involved -- only then are you through. Never retire."
 (変わること、学ぶこと、関わり続けようとすることを止めた時、その時こそ君の人生は終るのだ。決して辞めるな)


vendredi 11 juillet 2008

医の言葉を考える

Prof. Denton Cooley (born August 22, 1920)


七夕の日の午前中、定期検診へ向かう。ランデブーの時間に少し遅れたが、フランスではそれほど問題にはならない。検査結果を持参して診断を聞き、その後にい つものように別室に移り視診、聴打診、体重・血圧測定、さらに今日は指先から血液を採り血糖値を計っていた。それが終った後、いつも雑談に入るのだが、今回もその時間があった。前回、私の方からフランスの哲学者について話したらしく(思い出さないのだが)、大学の話になる。そこからメモワールとして医学の歴史において病気がどのように見られてきたのか、患者と医者の関係はどのように変化してきたのか、、、などについてまとめようとしているという話をする。 それに対して、医学についてそのような側面から哲学するのは素晴らしいですね、という反応(前回は、フランスで哲学を勉強するなんて素晴らしいですね、という言葉をいただいた)。さらにフランスでもその辺はいろいろと研究されているようですが、医者と患者との関係についてはモリエールがすべてを語ってくれていますね、と付け加えていた。上から諭すような話し振りではなく、自らがそう感じ取っていることを話すというスタンスを感じ、患者と医者が同じ平面にいることを意識させられる。それだけで大きな勇気を与えられるように感じる。最後はいつもの握手と「ボン・ヴァカンス」という言葉で送り出してくれた。来る前はよもやモリエールの話が出るなどとは考えてもいなかったので、妙に嬉しくなっていた。私は特に病気ではないのだが、こういう時間こそ患者にとって癒しを与えてくれるものになるのではないだろうか。

私は医者の言葉のみならず、言葉を超えた何気ない仕草などを含めた、言ってみれば存在そのものが癒しの力を持っており、そのことが今忘れられているのではないかと思っている。これが改善されるだけで、医療に対する不満や不信のかなりの部分が解決されるような予感さえしている。そういうこともあり、こちらに来る前から病院での経験を注意深く観察するようになっている。こちらに来てからも病院だけではなく検査をするラボラトワールでの様子とそこで起こる自らの中の変化に目をやるようにしている。今回のLH医師との会話を思い出しながら、本来医学の中心の置かれなければならないこの問題について考えていた。

ドイツの哲学者ガダマーも医者の言葉が持つ癒しの重要性を考察している。患者になった方であればわかるだろうが、患者というものは医者と出会った瞬間から最後に別れる時まで全身の 神経を医者の言葉に集中している存在である。それだけの集中力で人の話を聞くことはないだろうというくらいにである。そこで吐かれる言葉の力はいくら医者の権威が地に落ちたとは言え、無視できないものが残っているだろう。医学の基本の基本にあるべきはずこのことが忘れられているのではないかと感じる場面にこれまで幾度も遭ってきた。この事実に医の側(医者を含め医療に携わるすべての人)は真剣に目を向けるべきではないだろうか。医療に身を置く人は、単に医学の科学的・技術的側面だけに身を捧げるテクニシャンを目指すのではなく、そこを超えて人間を理解したいという熱い意志(passion)を持っていなけ ればならないだろう。

アメリカの心臓外科医デントン・クーリー博士は「健康と病気の概念」という本の巻頭言で医学の現状を考察している。その文章には単に言葉として語っているのではない、これまでの経験から滲み出た深い思索の跡が見られる。

「医科学の中心をなす概念について哲学的に考え抜いて得られた知識や経験がない限り、より良い結論や政策には辿り着けないだろう」

「医 学教育に携わる者が現代社会における医師に求めるのは、純粋科学以外の領域に触れること、それはまさに哲学教育に匹敵する広い人間教育である。歴史、哲 学、倫理などに精通した医師こそ人間を取り巻く種々の問題について判断を下す資格を持つだろう。これからの医師は単なる医学や科学の徒であるだけではなく、教養と智慧を備えた学徒でなければならない」

これは1981年に出版された本での発言である。当時の状況は今と変わらないどころか、 彼の言葉が益々重みを持ってきている状況にあるというのが私の印象である。この言葉を医の側が聞き流しているうちは何も動かないだろう。しかし、これを真に受け止めることができた時、そこに関わるすべての人が新たな方向に向けて動き出さざるを得ないだろう。それくらい大きな問題である。これは余りにも大きな問題なので、今日はその存在を指摘するだけで終わりにしたい。





mardi 8 juillet 2008

絶対的に生きる


変な日本語である

正確には、絶対的なものとともに生きること

あるいは、絶対的なものに向かって生きることになるだろうか

絶対的なものとは何だろうか

それを掴むのは難しそうだ

今のところ、この世の謂わば相対的な価値に囚われることなく、という否定的な記述に留めておきたい

これができれば、素晴らしいだろう

そうすれば、死ぬ前に死ぬことにはならず、本当に生きたことになるだろう

それを支え動かすのが、自らの内なる声、わたしが「内なるモーター」と言うところのものになる

 その存在の重要性に気付いたのは、実はかなり前である

わたしがアメリカに滞在した5-6年目くらいだったので、もう四半世紀前のことになる

その精神状態が今、具体的に顔を出しているような気がする





lundi 7 juillet 2008

その瞬間にやってしまう



新しい人に触れた時、一つの言葉が思索を刺激することがある

それを逃さずに控え、それを纏め、広げる作業をその時にやっておくこと

その瞬間を逃すと、どこかに行ってしまう





dimanche 6 juillet 2008

アスクレピオス学派の哲学

Statue of Asclepius 
exhibited in the Museum of Epidaurus Theatre


坂本百代氏の分析によれば、「医学の神」とされるアスクレピオスの医療にはつぎのような特徴がある

この学派は死を忌み嫌い、死を寄せ付ず、重病人は入院させなかった

同時に、出生も医療の対象とはしなかった

つまり、生と死を除外した人生の中間の時期を対象としていた

そして、生を楽しみ、文化的に充実することを医療の目的としていた


 そこには劇場や図書館があり、病院が学問の府の様相を呈していたという


 アスクレピオスはアポロンの息子で、死者を蘇らせたとしてゼウスにより雷に打たれ殺される

 死後、ゼウスはアスクレピオスを蛇遣い座の中に置いたとされている

上の写真にあるように、アスクレピオスはシンボルになっている蛇が絡まった杖を持っている

それはそのまま医学の象徴にもなっている





samedi 5 juillet 2008

治癒者に必要なもの


「治癒」に関わる重要な要素として、患者と医者の間で交わされる会話がある。医者が治癒者という立場を維持しようとする時、最初の接触から最後に至るすべての過程でどのような言葉を使うのかが問われる。言葉には治癒を決める力があることを忘れてはならない。

ここでの大きな問題として、そもそも「会話とは何か」という問いが浮かび上がるが、これからの問いとして控えておきたい。

これまでの患者として、あるいは患者の家族として医者の言葉には注意を払ってきた。患者の側は医者の言葉にどれだけ多くの影響を受けているのかを体で感じて きた。この事実に医療の側が充分な配慮をしていないと思われる場面にも遭遇している。現在の状況はよく分からないが、この視点からの教育はどの程度されて いるのだろうか。

治療の英語 therapy の語源は古代ギリシャ語のθεραπεία(therapeía)で、奉仕(service)の意味が含まれている。その意味では、科学としての医学を施すだけでは不充分で、患者への敬意を払いながら人間への実践の技術(ars)がどうしても求められる。科学を施せば十分であるという姿勢が広まる中、真の治癒者になる上では忘れてはならない点だろう。




jeudi 3 juillet 2008

病とどう向き合うのか?


この問いにどう答えるのか。大前提として、われわれは死すべき存在であるという認識に達することができるかどうかという問題がある。さらに、この生には病が 付いて回ること、われわれは病とともにあることを前提とできるかどうかに掛かってくるだろう。健康の時にはなかなか難しいことだが、これができると新しい 道に入ることができるのではないだろうか。

われわれが無意識のうちに持っている健康こそ第一で、病は退けるべきもの という考えを見直すことができるかどうか。病に罹ると社会との断絶が起こり、それまで考えていた人生からの脱落のように感じることは想像に難くない。それ も病についての考えを改め難い一つの要因だろう。

しかし、人生をもっと大きく捉え直した場合はどうだろうか。例え ば、このような自問はできないだろうか。社会の中での仕事をしている時には、この自分という存在のどれだけの部分を使っていただろうか。病を得ることによ り、全存在の中でそれまで使われていなかった部分が活力を持ってくることはないだろうか。それは、この存在を新しく生かすことに繋がっているのではないか。




dimanche 29 juin 2008

知者と賢者

"Adolphe Franck" (1878)


離れて日本を見る
どこもかしこも儲かるか儲からないかの枠組みしかない貧しさだ
もはや すべての人にこれが組み込まれているかのように
しかも その意味を疑うことがない
あるいは その枠の中にいることさえ気付いていない

フランスで哲学を学び始めて 何かのためではなく
 そのもののためだけに考えることがありうることに驚く
その態度を知ってしまうと それ以外が浅いものに変わって行った

枠組みを取り払って考える
この過程を経ないところからは 何も見えてこないだろう
それは生きる術ではなく 生の理解にわれわれを導く


ある人が思想を語る
それを聞く
その時 その思想がどれだけその人の体から出ているのか
どれだけその人の生と繋がっているのか
その結びつきが見えない時 その話は全く残らない 伝わらない

知識ではなく智慧
知識を統合したところの智慧
これが人を動かすのだろう
どの分野にも欠けているのが深い智慧
今求められるのが 知者ではなく賢者である所以だ

ひょっとすると私のどこかに賢者への憧れがあったのかもしれない
そこに辿り着くためには ある領域を抜け出たところでしか手に入らない何か
その何かを求める旅に出なければならないとでも思ったかのようである



mercredi 25 juin 2008

すべてはすでに考えられている?


この領域に入り、これまで自分の考えていたことはすでに考えられていることに気付くことが多くなっている。日本にいる時には、事ある毎に 「人生は数字ではない」 と言ってきた。これなどは自分の独創などとは思ったことはないが、今日次の言葉に出会った。

「生命に関するすべては質的なものである」

 このようなことがこれから次々に起こる予感がする。





lundi 23 juin 2008

病理学では扱わない 「病理とは」 という問い


手元にある病理学の教科書 Robbins Pathology の病因 (Etiology or Cause)のところに、次の記載がある。
"For the Arcadians, if someone became ill, it was the patient's own fault (for having sinned) or the makings of outside agents, such as bad smells, cold, evil spirits, or gods. For modern terms, there are the two major classes of etiologic factors: intrinsic or genetic and acquired (infections, nutritional, chemical, physical).
The concept of one etiologic agent to one disease (developed from the study of infections or single-gene disorders) is no longer sufficient."
病気には内因性と外因性のものがあるということが紀元前の大昔からわかっていたという記述である。日本にいた時には、『病理学総論』 の環境や外因による疾患に関する章を受け持ったこともある。今哲学に入り、病理学の教科書でどの程度哲学的な要素が扱われているのか、Robbins を改めて見直してみた。改めて、と書いたが、このような視点で教科書を見るのは初めてになる。

この教科書は1,000ページを優に超えているが、病気とは何なのか、病理とは何なのかについて触れていると思われるところは、僅か半ページほどである。そ のことに驚いたが、現役の時にそう感じたことは一度もなかった。つまり、病理学にそのような期待はしていなかったと同時に、病理学の視野にはこの問題は 入っていないことになる。やはり、この問題を扱うのは哲学に任されているのかもしれない。その意味では両者の交流が不可欠になるが、哲学の方がどれだけ進 んでいるのか、今の段階ではよく分からない。




vendredi 13 juin 2008

ハーバート・スペンサーと社会進化論


Herbert Spencer
(April 27, 1820 – December 8, 1903)


イギリスの哲学者、社会学者にしてダー ウィンの進化論の擁護者で、適者生存("survival of the fittest", "sélection des plus aptes")の造語者。ダーウィンの進化論が生物界を対象としているのに対して、彼は特に自然選択の考えを哲学、心理学、社会学の領域へ適用しようとし た。後に、彼の思想は社会進化論("social Darwinism", "Darwinisme social")と呼ばれたが、基本的な点でダーウィンとは一線を画している。第一に、ダーウィンの進化が全くの偶然の結果で、最終的には"open- ended" であるのに対し、彼の進化論は最後にはある目的に叶う理想的な平衡状態("end-point")に落ち着くと考えていた(Progress, therefore, is not an accident, but a necessity.)。また、ダーウィンの最終的な立場とは異なり、彼は獲得形質(例えば、よく使ったものが発達し、そうでないものは退化するが、それ)は遺伝するとしたラマルクの信奉者であった。これらの考えが社会の発展を見る時に重要であると彼は考えていた。

歴史の不幸になるのか、本来は自由主義に基づく彼の考え方が選民による大衆(より適応していないとされた)の支配、例えば植民地主義、優生学、さらにはナチズムによってその科学的根拠を与えるものとされた。その流れは現代でも一部で受け継がれている。

大部分の(哲)学者の書は専門外では読まれないものだが、彼の生存中に100万部を超える書が売れている。1860年から1903年までの間に、アメリカ だけで37万部弱という本国イギリスと同じ売り上げを記録。海賊版を入れると相当数になるだろうと言われている。想像力を喚起する彼のスタイルや自己啓発的な要素も加わり、専門職の人だけではなく一般の人にも受けたのではないだろうか。そのためかどうかわからないが、専門の哲学者たちからは批判もあったようである。生涯独身を通した彼は亡くなるまで書き続け(最後は口述筆記)、ノーベル文学賞の候補にもあがっていたようだ。

彼の宗教的立場は不可知論で、神の存在は知りえないとするもの。神学を拒絶したが、科学を根拠に宗教を転覆させようとしたのではなく、科学と宗教を融和しようとした。また、戦争や帝国主義に抗し、国家の役割を最小限にする(国内外の安全保障に限る)という思想 "minarchisme" の擁護者でもあった。


スペンサーとダーウィンの考えを読みながら自らを振り返っていた。ある目的に向かって歩む、あるいは予定調和を思わせるスペンサー的考え方とは相容れない 生き方、まさにダーウィンの偶然に身を委ねる "open-ended" の思想に近い生き方にしか魅力を感じなかったようだ。今回こちらに来ることになったのも、そう考えると理解しやすい。この一事からこれまでを見ると、私は真の意味での(ダーウィン的)進化論の信奉者だったのかもしれない。

最後に彼の言葉から。日頃よく耳にする考えが彼に由来することがわかる。

● "Every man may claim the fullest liberty to exercise his faculties compatible with the possession of like liberties by every other man."

● "Every man is free to do that which he wills, provided he infringes not the equal freedom of any other man."

 いずれも他人の自由を認め、その自由を侵さない限りにおいて、人は自らの自由を行使できるという考え方。


● "No one can be perfectly free till all are free; no one can be perfectly moral till all are moral; no one can be perfectly happy till all are happy."

 すべての人が自由で、道徳をわきまえ、幸福にならなければ、人は自由でも道徳的でも幸福でもない。その方向に社会が進化する(べきだ)と考えていた。

● "Opinion is ultimately determined by the feelings, and not by the intellect."

 意見(世論に通ずる)は最終的には知性ではなく感情で決まる。日頃の出来事を見ていると、19世紀の彼の観察眼の確かさに肯かざるを得ない。






lundi 9 juin 2008

ニールス・イェルネという科学者

Niels Jerne writing in a church somewhere in Europe


To氏から届いた今年の年賀状に、私の姿がこの方と重なったという言葉が添えられていた。免疫学をやっている人ならば知らない人はいない方である。何とも過分な言葉だったのでこれまでどこかに引っ掛かっていたが、振り返る余裕がなかった。To氏は大学院時代の後輩で、私がアメリカに行く前の1年間一緒に仕事をしていたことがある。その後ニューヨークでも1年ほど時期が重なり、彼がイギリスに移ってからも学会参加の折に訪ねたこともある。彼はイギリスに10年ほどいたのではないだろうか。ヨーロッパの空気を長い間吸っていた彼がどうしてそのような印象を持ったのかはわからない。とにかく、この機会にニールス・イェルネという人間について読んでみることにした。

Science as Autobiography: The Troubled Life of Niels Jerne (Yale University Press, 2003)

とにかく、興味深いエピソードに溢れている。とてもすべては紹介できないが、まず各章のタイトルを眺めて驚いた。そこには私の発言ではないかと思われるものがいくつか並んでいたからだ。例えば、こんな具合である。

 1. "I have never in my life felt I belonged in the place where I lived"

 3. "I wanted to study something that couldn't be used"

 4. "I have the feeling that everything around me is enveloped in a mist"

 21. "Immunology is for me becoming a mostly philosophical subject"

最後のタイトルは私の願望であったかもしれないが、彼はそれを実現させてしまったということだろう。この本を読んでまず感じるのは、当然のことながらいかにもヨーロッパ的な科学者がそこに描かれているということである。今こうしてパリにいることが、そのことを体で理解させてくれる。デンマークの人であるが、オランダに移り住んだこともあり、デンマーク語、オランダ語、ドイツ語、英語を操るこちらでは稀ではないポリグロットであった。そういうこともあり、第一章の発言になったのかもしれない。

若き日の考え方は"art-for-art's sake"というロマンティックなもので、機械文明を軽蔑していた。重要なことは他にあり、それは考えることであり、感情であり、愛情であった。それも"love for someone"ではなく、"love for love itself"。当然のことながら哲学にも興味を示し、ニーチェ、キェルケゴール、ベルグソンを読み、文学ではジードとプルーストを愛したようだ。

将来の専門を決める時に、彼は役に立たないことをやりたいと考えた。数学が浮かび、文学、歴史にも興味を示したが、結局すべてのことに興味があるのだから哲学をやるべきだと結論する。しかし、物理学のアドバイザーと父親の意向を受け入れ、ライデンで物理学を学ぶことにする。ところが酒に溺れたり、文学や哲学に凝る生活で学業の方は思わしくなく、この間の成果は個人授業で習ったラテン語とギリシャ語だけだとまで言っている。社会な成功を目指す姿勢を示す同僚には軽蔑を覚え、他の人と同じではいやだと考えていたことが紹介されている。それでは一体何をやるべきかという問題に再び直面する。法律、工学、教師の道には興味はなく、残ったのが医学であった。そこでは広い視野が要求され、科学としてだけではなく、哲学、心理学、社会的要素も学ばなければならないところが気に入ったようである。

この著者はイェルネのメモや日記なども見ることを許されていたようで、人間イェルネが至るところに顔を出す。彼の私生活も相当生々しく語られている。基本的には自分が満足する人生を選び取った人で、家庭は顧みなかったと言うのが正確だろう。夫として、あるいは父親としての人生には耐えられなかったかのようだ。画家であった最初の妻はおそらく彼の女性関係が原因で自殺している。二番目の妻はその時の女性らしいが、結局満足できなくなっている。

デンマーク国立血清研究所 (コペンハーゲン、1950-1951年)
左がガンサー・ステント、右端がジム・ワトソン、後ろで立っているのがイェルネ

この本を読むと、後に名を成す科学者の接触がいくつも見られる。例えば、この写真にあるように若き日のジム・ワトソンやガンサー・ステントが彼の研究室に滞在している。その後ワトソンはクリックと運命の出会いをするイギリスのキャベンデッシュ研究所へ向かい、ステントはパスツール研究所を訪ねることになる。また後年、アメリカが気に入っていたドイツ人のマックス・デルブリュックの誘いでカリフォルニア工科大学を訪ねることになるが、その時の様子はまさにヨーロッパの科学者が砂漠の中で迷っているように見える。そして再びヨーロッパに戻り、かけがえのないもの、とてつもなく重要なものに帰ってきたことを悟る。それは数千年に及ぶヨーロッパの歴史であり、ヨーロッパ精神であり、素晴らしい活力であり、想像力であった。またカリフォルニアでは助手がいないので実験ができないとこぼしている。彼は実際のウサギも見たことがないのではないかという話も紹介されている。机に向かい考えるだけの理論家としての面目躍如というところか。

彼の考え出した自然選択説は、われわれの体を守る抗体がどのようにして出来上がるのかという問題についての新しい仮説である。それまで支配的であった考え方は、外から入ってきた抗原が抗体を作る指令を出すというもので鋳型説とか指令説と言われていた。しかし、彼は抗原には何ら積極的役割はないと考えた。そうでなければしっくり来ないと思えたようだ。ある種の直感、美的センスというものだろう。しかし、この説は20世紀初頭に唱えられ忘れられていたポール・エーリッヒの側鎖の単なる焼き直しで、その仕事を引用しないのは不当ではないのかという批判が出された(以前に少し触れている)。彼がそれを知っていて触れなかったのか、あるいは知らなかったのか、わからない。ただ、このことについて悩んでいた記録が残っているようだが、結局彼はエーリッヒに言及することはなかった。その説も最初はワトソンから"stinks!"と言われたり、"baloney!"などとの評価しか受けなかったようだが、次第に認められるようになる過程も興味深いものがあった。

この他にも興味深い話が満載されている。これからも閑を見て摘み読みしてみたい。役に立つ研究が声高に語られるようになり、科学者が技術者になっていく状況の中、私の中での一つの理想にも見える研究生活を最後まで貫いた人生だったように感じる。

自らの姿は自分では見ることができない。それを知るためには、どうしても他の人の目が必要になる。イェルネと比較することなどおこがましいが、To氏の言葉によってイェルネの世界の見方の中に自らと共通する要素を見ることができたことは事実である。それは薄々感じてはいたもののはっきりとは意識されていなかったもので、この本の中の声に刺激され浮かび上がってきたようである。ただ、To氏が私の中にどのイェルネを見ていたのかは今もってわからない。

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(10 juin 2008)

この本の著者Thomas Söderqvist博士から、すでに日本語訳「免疫学の巨人イエルネ」が出ていることを知らせるメールが届いた。

その中に彼のブログが紹介されてあり、日本語訳のタイトルを見る限り彼の意図が失われている、さらに言うと意図に反する訳になっていると書かれてある。この本で彼がやろうとしたことは、「巨人」というような言葉を使う偉人崇拝ではなく、原題にもあるように、イェルネの理論的な仕事は自らを理解しようとする試みだったことを示そうとするケース・スタディであり、科学者の内面を構成する科学知に向かう感情的・実存的な側面が社会・文化的なものと同様に重要であるというメッセージであった。先日、メチニコフのシンポジウムでお会いしたボストンのフレッド・タウバー氏の書評ではそのメッセージが伝わっていたが、日本語訳では完全に失われている(lost in translation)。イェルネを巨人と考えている免疫学者もいるかもしれないが、少なくとも彼はそうは描かなかったし、彼の意図ではなかったとある。


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(21 juin 2008)

この記事に出てくるガンサー・ステント博士が6月12日に亡くなっていたことを知る。
ニューヨークタイムズの追悼記事はこちらです。


 この記事の英語版


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(10 octobre 2009)

本日、偶然にも Thomas Söderqvist 博士のサイトを訪問、この本が彼の手元に届いたことを知る。以前に、この本のタイトルの真意が翻訳の過程で失われていることを書いていたが、改めてそのこ とに触れ、その上で日本語版の完成を喜んでいる様子が伝わってきた。詳細は、ブログ "Representing Individuality in Biomedicine" で。

 'Science as Autobiography' lost in translation -- 免疫学の巨人イェルネ






dimanche 8 juin 2008

フリーマン・ダイソンの科学・宗教観


この方の名前をどこかで聞いたような気がするが、思い出さない。イギリス生まれの数学者・物理学者で、アメリカに渡り最後はプリンストンの高等研究所で研究をしていた。今回、科学と宗教について語っているビデオに出くわしたので聞いてみることにした。

  Freeman Dyson (15 décembre 1923-) ビデオ

宗教的立場を問われて、"religion without theology"と答えている。彼の世界観はagnostic に近いようだ。神の存在を求めると言うよりは、彼にとっての宗教はその文学であり、音楽であり、絵画である。つまり宗教が生み出した具体的な芸術ということになる。さらには人間関係を結ぶもの、コミュニティを支えるものと捉えている。人間はself-sufficientではない。一人では生きられない、何かに頼らなければ生きていけない存在である。生きていくためには大きな目的が必要であり、それがないところに行動は生れない。

彼は3つの心・精神を提唱している。一つはhuman mind。それからmicro (atomic, subatomic) mindとmacro mindを考えている。ミクロの方は原子などの世界で、マクロは宇宙の世界になる。これを聞いた時、すぐにパスカルの二つの無限を思い出した。例えば、量子物理の世界では原子が崩壊するか否かは予想ができない。その意味では原子(の心)に選択の自由があることになる。蛋白質の精神などということも思い出す。これはあくまでもモデルだとしているが、、

それからEdward Wilsonがその著書で科学によってすべてが解決できるとの考えを発表した時に、その書評で批判している。ダイソンが科学はあくまでも限られた領域のことにしか答えを用意していないと考えていることがわかる。先日のトルストイとメチニコフとの行き違いを思い出すエピソードでもある。

科学も宗教も神秘的なものに向かう活動である。彼は科学を取り巻く世界を語る時に、ある詩の一節を思い出すという。それは科学とは草原のようなもので、その周りには鬱蒼とした森が取り囲んでいる。世紀を経て草原が広くなろうともその森は決してなくならないというもの。科学と宗教は外に広がる宇宙を見るための2つの窓のようなもので、別の視点から同じものを見ていると考えているようだ。また彼の場合には、宗教を詩のようなものとして捉え、科学とともに大切なものに感じている様子が伝わってくる。

われわれの未来のことを問われたダイソンは、こう答えている。彼が子供時代を過ごした1930年代のイギリスでは、先がほとんど見えないhopelessな状態を経験した。それから現在を見ると、全体としてはよい方向に進んでいるようだ。神の存在はわからないが、その方向は大きな(神の)目的とは矛盾はしないだろう。現在も多くの問題を抱えているが、彼が子供時代に感じた絶望感を抱くところまで行くものではないと結んでいる。

イギリス紳士をそのまま科学者にしたような方で、その落ち着いた真摯な受け答えに好感を持った。

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Wikiに紹介されているイギリスの大学についての彼の言葉が印象に残った。

「ケンブリッジ大学に溢れる憂鬱な悲観論は、イギリスの階級制度の結果であるというのが私の見方である。イギリスにはこれまで二つの激しく対立する中流階級があった。一つはアカデミックな(大学人、学問を重視する)中流であり、他方はコマーシャルな(商業中心の)中流である。19世紀にはアカデミックな中流が権力と地位を勝ち得ていた。私はアカデミックな中流階級の子供として、コマーシャルな中流階級を嫌悪と軽蔑をもって見ることを覚えた。それからマーガレット・サッチャーが権力を得たが、これはコマーシャル中流階級の復讐でもあった。大学人はその力と威信を失い、商業人がその地位を奪い取った。大学人はサッチャーを決して許すことはなかったし、それ以来大学人は悲観的になったのである」

"My view of the prevalence of doom-and-gloom in Cambridge is that it is a result of the English class system. In England there were always two sharply opposed middle classes, the academic middle class and the commercial middle class. In the nineteenth century, the academic middle class won the battle for power and status. As a child of the academic middle class, I learned to look on the commercial middle class with loathing and contempt. Then came the triumph of Margaret Thatcher, which was also the revenge of the commercial middle class. The academics lost their power and prestige and the business people took over. The academics never forgave Thatcher and have been gloomy ever since."

この図は最近の日本の状況と重ならないだろうか。経済原理だけが優先される大学となり、そのことに疑義を唱えるどころか率先して従う今の大学人に大学に生きる自由人としての誇りや哲学はあるのだろうか。思えば、この改革が始まった時に大きな異議も行動も見られなかった。今や目の前だけを見た技術者が闊歩する一見華やかだが精神性に乏しい大学に変わりつつあるようにも見える。




mercredi 4 juin 2008

歴史の細分化にどう抗するか

Alexandre Koyré
(1892, Taganrog, Russie – 1964, Paris)


今日は科学史家アレクサンドル・コイレの"Perspectives sur l'histoire des sciences" (1961年、「科学の歴史についてのパースペクティブ」)を読んでみたい。彼はロシアに生まれ、ドイツ経由でフランスに落ち着いたが第二次大戦を鋏んで米国に移住し、後年フランスに戻りパリで没した。ドイツでフッサールの講義を聞いていたようだ。

このエッセイでは、アメリカのコーネル大学で科学史を教えていたゲルラック(Henry Edward Guerlac; 1910 - 1985)の論文をもとに考察を加えている。ゲルラックは科学史研究の歴史を振り返った後にデルフォイの問に行き着く。すなわち、歴史とは一体何なのか?という問である。人類の歴史と言った場合、ひとつにはこれまでに起こったことの総体、過去の出来事や事実の集合で客観的な歴史とでも言うべきもの。それから歴史家が語る過去の物語がある。

しかし、過去に辿り着くのは大変なことだ。すぐにどこかに消えていき、最早そこにはなくなり触ることのできないものである。唯一接触できるのは、これまでの時間と人間の破壊から逃れた作品であったり、記念碑、記録などだろう。それにしたところで過去のほんの一部でしかない。さらに重要なことは、それらの記録が残るに至った経過で、当時の人の当時の基準による取捨選択が行われている可能性である。その場合、歴史家が自らの時代の制約を受けた歴史を語っており、本来不変のはずの過去が常に改変され、変質して今日に至っていることになる。

19世紀から20世紀にかけての人類の歴史の発展は感動的でさえある。古代文字の解読、体系的な発掘などがわれわれに多くの過去をもたらしてくれた。しかし、すべてのことには裏がある(toute médaille a son revers)。歴史が発展し充実してくると専門化、断片化、分裂、細分化が起こってくる。人類の歴史と言う代わりに、あれやこれやの部分的歴史になってしまう。この過度の専門主義と分離主義が歴史研究に悪弊をもたらしているとゲラックは問題提起している。そこには他の領域に対する尊大な態度と、科学が生まれた生の状態を説明しようとしない理想主義的な傾向が現れてくる。

コイレはこの指摘に完全に同意する。すべて(tout)は部分の総計(la somme des parties)より素晴らしい。地方史の集合は国の歴史にはならない。さらに各国の歴史の集合はより普遍的な歴史の断片にしか過ぎない。地中海沿岸諸国の歴史が地中海史には成り得ないことでもわかる。数学や天文学、物理学や化学の歴史を合わせたからと言って科学の歴史にはならない。しかし、一体どうすればよいと言うのだろうか。部分を解析し、それを統合することなしに全体を理解することは不可能なのである。専門化という現象は発展の代償なのだろう。今やひとりが科学や人類、芸術や宗教の歴史を書くことなど不可能になっている。これこそ現代の最大の問題である。しかし、この問題に対する処方箋はコイレも持ち合わせていないと認めている。


Henry Edward Guerlac (1910 - 1985)


この問題は歴史に限らずほとんどすべての専門領域に当てはまることだろう。科学を例に取っても、このままどこまでも突き進むと予想される。それ以外に科学の中での論理はないからだ。しかし、科学も人間の行為であり、したがって社会の中での行為になる。社会が科学に何を求めているのかによって科学は大きく変わりうることを歴史が教えている。深い思慮もなくどこまでも発展を求める心理がある限り、益々加速して進みそうである。この傾向に抗するには、それにも増して大きな哲学が求められるだろう。その上、空に描かれたその絵をどれだけの人が真剣に見、それを自らの生きることに繋げることができるのかという問題が待っている。

  "Apprendre, c'est faire" (学ぶとは行動すること)





vendredi 30 mai 2008

ピューリタニズムと科学、そして日本

Robert King Merton (4 juillet 1910 - 23 février 2003)


アメリカの社会学者で科学社会学の創始者とされるこの方の最初期の仕事 "Le puritanisme, le piétisme et la science" (1936年)を読む。その中で、17世紀イギリスを対象に社会と文化と文明の関わりを見ようとしている。特に、清教徒(ピューリタン)が掲げる価値と科学の目指すところを概観し、宗教と科学の関係を比較解析している。例を挙げての指摘から数値を使って証明する方向に向かっている。その結果、ピューリタンの倫理が科学の発展をもたらしたという結論に達している。

神の創造物である自然を理解することにより創造主を賛美し、人間に幸福をもたらすことがプロテスタントの倫理であり、それが科学の目的とも合致した。自らの興味に基づいて、などという甘い動機付けではとても叶わない大きな力を感じる。17世紀の中ごろにRoyal Society of Londonが設立されるが、その憲章にもこの二つが掲げられている。ドイツの敬虔主義でも同様の現象が見られた。科学への参加はカトリックよりはプロテスタントが優位であったようだ。さらにこれを読むと、日本の徳川に当る時代から "why question" や "how question" について議論されており、その歴史の重さには如何ともしがたいものがある。

そう感じた時、日本の現状に目が行っていた。日本には優れた科学者はいるが、科学という文化はないと言った人がいるらしい。的確な観察だとは思うが、それはヨーロッパ3000年と日本の100年か200年という歴史の長さとその質の違いから来るものだろう。アメリカの歴史も短いが、そもそもアメリカはピューリタンの国。彼らは新大陸に辿り着いて16年後の1636年にはボストンに大学を造り、当時の大学の学長はボストンに哲学協会まで創っている。国の成り立ちが日本とは全く違うのである。日本の学会では科学を何とか若い人や一般の人に浸透させようという動きがあり、それは政府のレベルでも考えられているようだ。文化としての科学を育てなければ、ということなのだろう。この手の問題に対してテクニックで解決されると考えている節があるが、そんなに簡単にできることではないことにすぐ気付くだろう。まずその文化がないと言われている科学者がその先頭に立つのである。科学の発祥を辿っていけば、批判的なものの見方や自立した考え方がなければそもそも科学が生れなかったとされている。つまり、そういう精神のないところに科学文化が生れてくるだろうかというのが素直な疑問だろう。その精神が生れるにはどうしたらよいのかを考えることが先決のような気がする。しかし、この問は科学を超えて途方もない大きさのものになる。正面を見据えた大計が必要になるのだろう。

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この話題に関連して、あれだけの科学的才能を発揮していたパスカルが科学の空しさを感じたのが、彼がジャンセニスムに改宗してからであるという史実も興味深いものがある。ジャンセニスムの教えでは、永遠の真理についての瞑想を妨げ、限られた知性の中で満足させるに過ぎない科学に対して空しい愛を抱くことを諌めているからである。

科学の発展に宗教の果たした役割が計り知れないというマートン氏の指摘。宗教が科学を脅かす可能性が懸念され論じられている現代。歴史の大きなうねりにも興味尽きないものがある。




lundi 26 mai 2008

一年を振り返って


今朝は最近の日課になっている朝のバルコンから始る。目を閉じて日の光を浴びていると、体全体が恵みを受けているように感じる。強い日差しを瞼の上に見ながら、この一年のことを振り返っていた。

こちらに来る前は科学哲学以外にもギリシャ哲学、芸術哲学、宗教哲学、現代哲学などなど哲学全体を眺めてみたいという想いを抱いていた。その想いはこちらに来てからプログラムを見ている時も続いていた。しかし、専門のクールが始り、その内容の豊富さに圧倒され、専門の領域だけでもどうなるかわからないと悟ることになり、最初の想いはどこかに飛んでいってしまった。

広く見てみたいという想いは、それまでの専門領域での生活を客観的に見ることができるようになったために生れたものだろう。専門領域を決めたのは二十代前半になるので、それ以外の分野は横目で見る程度で自らの領域が人生のすべてという生活をしてきたことになる。その中での秩序や評価、そこから生れる満足感や失望の中でそれぞれが生きているのではないだろうか。しかし、そこから外に出て世界を眺めるという視点を持つことができるようになると、広大な原野が広がっていることに気付くことになる。私の中でのイメージでは、これまで生活していた専門の世界はその原野に口を開けている穴倉のようなもので、そんな世界に繋がる口がいくつも見えるというものだ。そして、その穴倉の中もかなりの大きさなのでそれが全世界だと勘違いしてしまうほどである。

私の場合、その穴倉から出てこの広い世界がどうなっているのかを知りたいと思ったことと、より現実的にはその領域を続けていくといずれ物理的制限が出てくることが予想されるので、早めにその制限がない一人でもできるところに転換しようということだった。しかし、その転換を決意した時には一線を越えるとかルビコンを渡るという表現がぴったりする自らの精神の動きをはっきりと意識した。今まさに何かを飛び越えたな、という感じである。そんなことがあり今一年を終えようとしているが、ある意味ではまた新たな穴倉に首をつ込み始めたということになるのかもしれない。ただ今のイメージは、この広い原野に樹齢数千年にも及ぼうかという大樹がぽつんぽつんと見渡せるというもので、その中の新しい大樹に登ってみようということになるだろう。したがって、今までのように横の世界が目に入らない、あるいは目に入れないというところから、横の世界も見晴らすことができるという明るいイメージになっている。

この一年間、全くの新しい分野についていろいろな人の話を聴きながら、その外にいては人びとの記憶にものぼらないだろう膨大な仕事を成し遂げた多くの先人の存在を知り感動したのは言うまでもないが、自らの考え方の癖もわかってきた。それは自分の考え方が唯一無二のものということになりがちなことを意識させてくれる大きな効果をももたらしてくれた。心を開く効果と言ってよいのだろうか。これは異文化の中で異領域に触れるという状況の中で増幅されたようにも感じる。

定年とは、努力しないでルビコンの河を渡ることができる時と言い換えることができるかもしれない。その先には仕事という専門の中に身を沈めていたそれぞれが、人間本来の(あるいは、それまで忘れていた)姿に戻るための茫洋たる原野が広がっているように思える。



mercredi 14 mai 2008

ジョルジュ・カンギレムによる哲学本来の使命 


ジョルジュ・カンギレムがテレビ討論会で語ったという 「哲学本来の仕事」 ("la tâche propre de la philosophie") の中身について、ドミニク・ルクールさんが紹介している。以下に、その抜粋と要約を。

La valeur de vérité « n'est pas celle qui convient à la philosophie ». Cette valeur s'attache à la science. Mais ce n'est pas, on l'aura compris, pour inciter à quelque culte scientiste du savoir scientifique. C'est pour mieux libérer la philosophie de toute prétention à être elle-même une science. La philosophie, pour sa part, parce qu'elle présume l'existence d'une totalité --- c'est-à-dire d'une unité --- des valeurs humaines, est le lieu inévitablement tumultueux où la vérité de de la science se confronte aux autres valeurs.

Mais, cette totalité n'est jamais donnée, elle est toujours à refaire, du fait même, au premier chef, que la science se présente comme une activité qui ne progresse qu'en disqualifiant ou en dépréciant son propre passé. Et voilà pourquoi la philosophie dans son mouvement propre ne peut pas, ne doit pas, rester une affaire de spécialiste. Parce qu'elle touche à toutes nos valeurs, il y a en elle « quelque chose de fondamentalement naïf et même de "populaire" ».

"Canguilhem: histoire des sciences et politique du vivant" p.42-43


真理の価値は「哲学が答えるに相応しい価値ではない」。その価値は科学と結びついている。しかし、この考えは科学者を尊敬に導くためではなく、哲学が自らを科学の一分野と捉える考えから解放するためのものである。哲学は人間的価値の統一された全体性を前提としているので、必然的に科学の価値が他の価値とぶつかり合う騒々し い場所となる。  

しかし、その全体性は決して与えられるものではない。まず第一に、科学が自らの過去の評価を下げることによってしか発展 しないという事実があるように、哲学は常にやり直すべきものである。哲学が専門家の仕事に留まっていることもできないし、そうあってはならない理由がここにある。哲学はすべてのわれわれの価値を扱うので、そこには 「本質的に無邪気で庶民的なものさえ」 ある。




jeudi 8 mai 2008

異文化を見る目


これまで読んだ日本人によるフランス文化、さらに広めれば西欧文化に対する批評にはどこか特徴があるように見える。それは肩ひじを張り、自らの考えを押し通 すために対象を意識的に下位に置こうとする姿勢とでも形容すればよいものだろうか。その考えを国際的な場での評価に晒そうという開かれた意識はなく、あく までも国内で通そうとするためにやっているように見えたのである。すぐ横にいる人間について話しているという自然さが見られないのである。その背後には西 欧文化の蓄積がないというコンプレックスのようなものがあるのかもしれない。そのような状態なので、紹介されているこちらの方もとっつきにくい印象しか残 らなかった。

それが変わったの は、こちらに来てこれまで紹介されていた対象をこの目で見、彼らの言葉で読むようになってからである。それは、対象を物のように扱うのではなく、隣にいる 人間に対するような心で接することができるようになり始めていることと関係がありそうである。このような姿勢をこれからも続けていけるとすれば、何かが大 きく変わるのではないだろうか。




mercredi 30 avril 2008

シンポジウム 「メチニコフの遺産・2008年」から


イリヤ・メチニコフ Elie Metchnikoff
(né le 15 mai 1845 à Ivanivka près de Kharkiv en Ukraine et décédé le 15 juillet 1916)


イリヤ・メチニコフがノーベル賞を受賞して100年を迎えたのを記念したシンポジウム(L’héritage de Metchnikoff en 2008)が2008年4月28日から30日までの予定でパスツール研究所で始ったので通っている。初日は歴史的にメチニコフの仕事を振り返るもので、アメリカ、ジョンス・ホプキンス大学のアーサー・シルヴァーシュタイン(Arthur Silverstein)教授とボストン大学アルフレッド・タウバー(Alfred Tauber)教授がそれぞれの立場から語った。

シルヴァーシュタイン氏は現在名誉教授で、もう少しで完全に引退するとのことであったが、もともとは眼科学教授でありながら医学の歴史についても研究をされ、免疫学の分野では古典と言ってもよい "A History of Immunology" (1989年)を著している。私も初版本を持っており、これまでよく読んできた。今アマゾンを見ると、お値段が¥15,485 となっている。これほど払った記憶がないので、価値が出てきているのかもしれない。

シルヴァーシュタイン氏は有名なメチニコフの写真を背景に、ゆったりとした調子で話を進めた。当時、炎症という現象が生体にとって害になると考えられていた。彼はヒトデで見出した貪食という現象を基に、炎症は宿主の受身の対応ではなく、積極的に対処している宿主にとって有益な反応で、その中心に貪食細胞があると考えた。

この考え方はドイツ学派には受け入れられず、彼が求めていたドイツでの就職は遂に成らなかった。1888年、彼が43歳の時にパスツールに呼ばれて創設されたばかりのパスツール研究所で仕事を開始し、1916年、71歳で亡くなるまで研究を続ける。

この間20世紀を跨ぐ20年に亘って、免疫は細胞によるとするメチニコフの細胞学説と免疫の主体は抗体であるとするポール・エーリッヒ(Paul Ehrlich)の液性学説とが、フランスとドイツに別れて争った。それは、不毛の争いではなく、むしろお互いが刺激し合い、新しい実験データ、新しいアイディアを生み出した実り多いものだったと結論している。その結果、エーリッヒとともに1908年にノーベル賞を手に入れる。

その後、貪食細胞には特異性がないということ、細胞の実験が非常に難しいこと、それから相手方のエーリッヒの提示した抗体産生のメカニズムを示す側鎖説の図の説得力、さらに決定打になったエミール・フォン・ベーリング(Emil von Behring)による血清療法の成功などが相まって、彼の説は次第に省みられなくなる。しかし、1世紀を経て彼の唱えた食作用、自然免疫という考え方が再び息を吹返してきている。シルヴァーシュタイン氏は最後に次のようなことを話して講演を終えた。

「1960年代から70年代にかけて細胞性免疫の研究が盛んになった時に、メチニコフのことを持ち出す人はほとんどいなかった。また、1950年代のニールス・イェルネ(Niels Jerne)やマクファーレン・バーネット(Frank Macfarlane Burnet)が自然選択説やクローン選択説を提唱した時に、エーリッヒに対する賛辞(tribute)を捧げることはなかった。歴史を忘れないということは重要なことである」



タウバー氏はもう少し若い世代のせいか、テンポ良く攻撃的に話を進めた。彼が示したメチニコフの絵はクリスティーの競売にかけられたものとのことで、見たことがないだろう、という調子であった。

メチニコフの生年1845年が重要で、1859年に発表されたダーウィンの「種の起源」の影響を同時代で受けており、進化論の信奉者になっている。彼の求めた問は、どのようにして生体はその同一性・独自性(identity)を保っているのか、というものであった。そして外界と協調関係にあるのではなく、むしろ disharmony が正常の状態で、その監視役として貪食細胞があると考えていた。当時としては全く独創的な考えであった。タウバー氏自身は、免疫学が自己・非自己の認識に終始するある意味では閉ざされたシステムとしてあるのではなく、外界の他のシステムとも交わるオープンで全的な(holistic)なシステムとして捉えるべきではないのかと考えている様子が伝わってきた。

話の中で、メチニコフに纏わるエピソードをいくつか紹介していた。パスツール研究所での年収が1フランだったこと。紹介した研究経過でもわかるように、実際にドイツ人は彼のことを嫌っていて、研究所では両者が話もしない時期があったという。またノーベル賞授与に際して財団があげた理由がエーリッヒについては短いのだが、メチニコフについては度を越えて長いものであったという。当時、非特異的な貪食細胞についての理解が、スマートな抗体による免疫には追いついていなかったということかもしれない。




それからもう一つ興味を惹いたのは、メチニコフとトルストイとの出会いである。1909年5月30日、ヤースナヤ・ポリャーナにあるトルストイの家で2人は会う。この日は哲学的問題や社会問題について話が進み、メチニコフと彼の2度目の妻オルガにとって深い印象を残すことになる。しかし、それぞれの印象が異なっていた。神秘主義的哲学者のトルストイは言う。
 "J'ai consulté un dictionnaire, devinerez-vous combien de genres de mouches ont été classifiés par les savants? 7000! Où trouve le temps de s'occuper dans ces conditions des questions de l'âme?"

 「私は事典を引いてみた。どれだけの蠅が分類されているのか当てて御覧なさい。何と7,000もあるのだ。そんな状態で精神の(本質的な)問題について考える時間がどこにあるのだろうか」

科学精神の持ち主メチニコフはこのように考えていた。
"La science est la seule issue pour l'Humanité souffrante."

 「科学こそ、病める人類を救い出す唯一のものである」
メチニコフがトルストイに対して尊敬の念を抱いていたのに対して、トルストイは科学ですべてが解決できると考えているメチニコフを浅はかな人間として捉えていたようだ。現在にも通じる視点の対立と言えなくもない。

講演の後で、シルヴァーシュタイン氏とタウバー氏と言葉を交わすことができた。シルヴァーシュタイン氏のところには日本人(すべて眼科医)が沢山来ていたようで、その過程で囲碁に興味を持ち日本棋院に初段の認定を受けに行ったこともあると話してくれた。お二人の著書を持っていたことを思い出し、サインをもらうため会場に持参していた。シルヴァーシュタイン氏は「敬意を込めて」という言葉を添えて、またタウバー氏のサインには「われわれのクラブへようこそ」と書かれてあり、これから話していきましょうとの言葉をかけていただいた。タウバー氏の本は今年になってから手に入れた以下の2冊である。


このような形で、これまで読んできた本とこれから読むであろう本の著者に接することになるとは思ってもいなかった。非常に満たされた気分で帰路についた。



dimanche 27 avril 2008

宗教は科学にとって脅威か?



先日ネットサーフの折、ガーディアン紙のサイトにあった科学と宗教との視点の違いがよく現れている対論に出くわした。科学を代表するのが一方の極にいるダニエル・デネット氏(アメリカ、タフツ大学)なので、その違いがより鮮明に出ている。その全文は以下のサイトにあるので参照願いたい。ここではその要点を掻い摘むことにする。

Is religion a threat to rationality and science?
(The Guardian; Tuesday April 22, 2008)

対論のテーマは宗教が理性や科学にとっての脅威になるのか、という問題で、科学代表デネット氏と宗教代表ウィンストン卿(インペリアル・カレッジ・ロンドン、名誉教授)が真っ向から対立している。

まず、宗教が理性や科学の脅威にならなくて一体何がなるのか、と主張するデネット氏。

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それはアルコール、テレビ、ビデオゲームだろうか、と自答している。これらはわれわれの判断力や批判的な能力を鈍らせる圧倒的な力があるが、宗教はそれらの力を無力化するだけでなく、それを歓迎するところがある。そして人は夢の世界に、知の世界から心を避け、彼らを毒する頭の中の声に耳を傾ける人生を送る。

以前は酔払い運転をする者を、アルコールの影響があるということで大目に見る傾向があったが、今や自らを無責任な立場に置くという大きな罪として捉えている。宗教についても同様のことを考えるよい時期ではないのか。社会を破壊するようなすべての宗教に基づく行為やその宗教指導者は運転する者に酒を勧める バーテンダーや取り巻きの人などと同じように罪深いという態度を取る必要があるのではないか。われわれのモットーは、友よ、友人を宗教に基づく生活に導くなかれ、である。

今現在、アフガニスタンで宗教冒涜の罪で死刑を待っている学生がいる。考えてもみてほしい。この21世紀の解放されたアフガニスタンで宗教冒涜の罪が死刑なのである。しかし、世界のほとんどの人が一言も発しない。どこかでデモがされただろうか。それともイスラム教徒を傷つけたくないのだろうか。宗教以外のことにはすぐに反応するのに、宗教に関わることになるとその判断が自らに跳ね返るためか躊躇するのだ。

この決断をどのような枠組みで捉えるのかにバランスを欠く点があるのだが、ウィンストン卿の場合は最悪である。彼は終りなき作業をしながら多くの問題を処理しなければならないが、その間にも一つの狂信的な行為によりわれわれが大切にしていたものが灰燼に帰すことも起こりうるのである。確かに、宗教を信じることと狂うこととは関係はないが、その一因にはなるだろう。最悪なのは、宗教的信仰は過大な自信を人びとに与えることだろう。それによって普段考えられないような非人間的な過ちを起こすかもしれないということを全く気に掛けなくなるのだ。

この理性への鈍感さが、宗教に対して最も恐れていることなのである。例えば、スポーツや芸術でも同様の非理性的な側面はあるが、社会的には隔絶されている。しかし、宗教だけはそれを神聖な義務として要求し、地上のすべての生活に関わってくるところが問題なのである。

よりよいものは最善の敵である。宗教は多くの人をよりよくする可能性はあるが、最高の状態であることを妨げるものである。その敬意、忠誠心、そして真剣な献身を、想像上の存在(神)からわれわれとわれわれの祖先が創った善き世界という実在するものに向かわすことができれば、素晴らしいのだが、、

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これに対して、ウィンストン卿はこのように反論する。

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デネット氏はパスカルの有名な賭けに応じることはないだろう。パルカルはこう言っている。「あなたが神を信じると言ったところで失うものは何もない。なぜなら、神が存在しないとしても失うものはないし、存在すれば死後の世界で恩恵を得ることができるのだから」。デネット氏は神なきものとして世界を理性的でよりよい場所とするように生きるのがよいと主張している。教会を建て、教会に通うのは資金と時間の無駄だと指摘している。

彼の進化論に基づくと思われる信仰についての見方には、信者の信仰や感情に真剣に向き合うところがないように見えるという問題がある。彼は異なる考えにも真摯に向かうと繰り返し主張しているが、彼の頭の中では人間を「優秀な者」と「信者」に分けている。つまり、あなたが優秀でなければあなたの考えには同意しかねる、なぜならあなたは知的に劣っていて、心が閉ざされ、過度に恐れているからだ、と考えるのである。

ある意味では、彼はリチャード・ドーキンスと同じ罠に嵌っている。彼は宗教について知っていると思っているが、真摯な研究をしたように見られない。例えば、ユダヤ人の態度やイスラム教の習慣など。

宗教は人間の意識に埋め込まれていて、その整合性については多くの証拠がある。有史前のわれわれの祖先の生存の話は置くとして、最近でも人知を超えた力が絶望的な状態に置かれた人間をいかに駆り立てるという例がある。ヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツの極限状況の中で唯一生き残ったのは、必ずしも信仰というわけではないが、ある精神性を持った人たちであったという観察をしている。

デネット氏は科学は真理であると信じているように見える。優秀な私の科学者仲間の多くと同様に、科学こそ確実性を意味するという考えを広めている。彼の著書 "Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon" でミームに対する彼の見解を支持するとして Eva Joblonka を引用しているが、彼女がドーキンスの進化に関する見方には批判的なことを忘れている。"The Book of Job" を再読された方がよいだろう。

問題は、今や科学者がこの本で扱っているような問題、われわれがどこから来て、どこに向かっているのか、われわれの宇宙を超えたところには何があるのか、というような生命の謎に迫るような問題について答えることができると信じていることである。しかし、科学を用いて研究すればするほど理解できないことが増えている。現実には宗教、科学ともに人間の不確実性を表現しているのである。確実性はそれが科学であれ宗教であれ、危険なものであるという逆説であろう。デネット氏の主張する比較的穏やかな確実性には、われわれの社会に亀裂を生むという危険性がある。科学と宗教の両者が硬直した立場を取ると、確実性が理性と科学にとって最も大きな脅威になるであろう。



jeudi 24 avril 2008

健康と病気についての抜き書き


● 「健康と病気は二つの異なった世界ではなく、生きるものが普通に持つ二つの状態である」 (François-Bernard Michel, Aux risques de guérir , 1997)

● 健康と病気について、ニーチェはこう言っている。
「稜線近くの二つの位置のようなもので、個人がその線を越える危険を冒してもう一方を探索することを可能にしている」
● 患者を意味する patient は、「わたしは苦しんでいる」 を意味するラテン語の patior に由来する。患者は patience (忍耐)が求められることにもつながる。

ルネ・ラエンネック(1781-1826) は、言葉、患者に触れる手、態度、署名などのすべてが治癒効果を持っていると考えていた。つまり、芸術と同様に、医療においてもその人間から発せられるすべてが重要になると考えていた。

● ヒポクラテスは、人間をその全体として診る態度があるかどうかで藪医者を区別していた。プラセボで治すことができるかどうか、つまり医者の人間力を重視していたのである。

● 「医者無き医学」が生まれるか。患者を診ることも触ることもなく、診断して治療薬を出すテクノロジーが生まれるだろうか。

● 「全体性 (Ganzheit; totalité ; wholenss) という概念は、19世紀にはなかった。専門化が進むに伴い、その対抗概念として生まれた」(ハンス・ゲオルク・ガダマー, 1900-2002)

● 病気を意味するフランス語は maladie しかない。英語には disease、illness、sickness の少なくとも3種類ある。disease は医学で明らかにされた状態で、sickness は自覚的・主観的な状態 (I am sick.) であるのに対し、illness はそれらに伴う社会的な状況を意味するようである。




lundi 21 avril 2008

リュック・モンタニエ氏語る



エイズ・ウイルスの発見者であるリュック・モンタニエ Luc Montagnier氏のインタビュー記事を読んでみることにした。出ていた雑誌は Enjeux-les-Echosで、以下のタイトルのもとにこれまでの研究から固まってきた彼の考えを語っている。

" La médecine du XXe siècle a épuisé ses ressources"
「20世紀の医学はその蓄えを使い果たした」

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われわれの平均寿命は、まだ毎年3ヶ月の伸びを見せている。しかし、ガン、白血病、心血管系、神経系の原因不明の病に侵されている。老化にしても同様である。今日、長生きする人は増えているが、骨や関節の問題、ガン、アルツハイマー病、パーキンソン病などで老後が必ずしも豊かなものにならない場合がある。入院期間が延び、効果のない高価な治療を続けることになり、健康保険も赤字に陥っている。

なぜ慢性の病気をなくすことができないのか。一つには、その原因が単一ではなく複数絡み合っているからだろう。それから一つのもの、例えば酸化ストレスと呼ばれる現象はDNAに変異を起こし、脂質や蛋白を変化させ、われわれの免疫系を弱めるという複数の効果を持つ。またある種の病原体は免疫系と折り合いをつけ、われわれの中の留まり続けるということも起こっている。

私は、エイズは老化が急速に起こるようなもので、老化はエイズがゆっくり進行するようなものであると言っている。老化に伴い免疫系をコントロールしている胸腺はほとんどなくなるが、エイズの場合はそれが急速に起こる。胸腺の退化は生物学的にプログラムされている。それは食料が限られていた太古に老人が退場することが種の保存に必須だったという厳しい自然選択の結果である。しかし、その後の文明、文化の発達に伴い、今やそれは存在理由がなくなっている。

医学もその自然選択に抗する役割を果たしてきた。それは本来早く亡くなるべき人たちを救っているからである。そのことにより、遺伝的欠陥を後世に引き継ぐことになるだろう。これは事実で、これから遺伝病が増えるという事を考慮に入れて、われわれはこの新たな状況に対処しなければならない。

したがって、遺伝子治療に関しては賛成である。ただし、自然がわれわれの体に生殖細胞と体細胞を分けて与えていることの意味を考えなければならないだろう。体細胞の遺伝子を操作することには問題を感じないが、われわれの遺伝子構成を変えることになるような操作には相当の慎重さが求められるだろう。幹細胞ですべてが解決するという立場にも私は慎重である。

私はずっと理性的であるが、偏見も持たない。植物エキスを治療に使ったわれわれの祖先の智慧をまだ科学的に検討できていないのだ。分子生物学は多くの成果を上げたが、ほぼ限界に来ていて、すべてを説明することにはなっていない。ホメオパシーはまだ謎のままである。

パスツールは微生物には何の意味もなく、その場がすべてだと言っている。われわれの体は常に細菌と接触している。免疫系が働いていれば、微生物の増殖は抑えることができる。ある種の植物エキスは酸化ストレスへの効果で免疫系を活性化する。エイズウイルスに感染している人の5%は発症しない。細菌やウイルスがガンに関与しているとすれば、例えば、弱い化学療法と抗生物質による治療の併用などのアプローチを取ることができるだろう。免疫系の賦活化による治療が発展することを願っている。人間は120歳まで生きるようにプログラムされているのだから。

酸化ストレスが老化などに関与している。植物に由来する薬剤の有効性を試すのがこれからの目標である。祖先の経験を拒否するのではなく、現代医学と結びつける試みが大切だろう。

フランスの研究は、第二次大戦と占領でイギリスやアメリカの科学と隔絶してしまった。ドゴール大統領はこのことに気づき、若い研究者をアメリカやイギリスに送り出した。それは、特に分子生物学において重要な役割を果たした。しかしそれ以来、その方法と概念を用いることに満足してしまった。エイズウイルスの発見は、すでに知られていた手法を単に用いた基礎研究によるものであった。その後多くの優秀な研究者が研究を進めているが、大きな技術革新を生み出すには至っていない。国による研究システムの整備が全くされていない。それからソ連崩壊後に優秀な研究者を呼び寄せることに失敗した。彼らはアメリカに流れてしまった。

さらに研究費も不十分である。日本は国内総生産の3%を研究に当てている。それから中国やインドも続いている。このままの状態でいると、世界におけるわれわれの占める位置は縮小していくだろう。この状況を抜け出すためには、突破口となる技術革新と概念の転換が必須になるだろう。フランスの経済的な発展と国民の安寧は偏にこの点にかかっている。


lundi 14 avril 2008

「水の記憶」の科学者たち



この週末、久しぶりにゆっくりしたのか、第三者の目で部屋を眺めると、足の踏み場もないくらい本や資料が散らばっていることに気付く。横に寝ていた本を縦に立てることでかなりのスペースができたので、少しすっきりした。こちらに来てから仕入れたそれらの本の数をざっと数えてみたところ、何と200冊程になっている。もちろん、目を通している方が少ないのだが、どうしてこんなに手に入れていたのかわからない。おそらく、どうしてよいのかわからないために、とにかく何でもよいから読んでおきたいとでも思っていたようである。日本ではこんなことはなかったので驚いている。バルテュスの「わたしは常に格闘してきました。それはどうすればよいのかわからなかったからです」という言葉を一瞬思い出していた。

ところで、その中にあった本を読んでいる時に以前から不思議に思っていた疑問に一つの答えが与えられたような気がするところに出くわした。その疑問とは、「記憶する水」 (2007-07-14) と題して取り上げたことのある現象を見出すに至った精神の運動についてである。簡単に振り返ってみたい。

ジャック・ベンベニスト
Jacques Benveniste (12 mars 1935 - 3 octobre 2004)

このフランスの免疫学者は次のような実験をした。アレルギーを起こす元になる抗体 (IgE) を含む血清をどんどん薄めていき、その中に抗体の一分子も含まないところまでもっていく。その上でこの希釈された血清を用いてアレルギー反応が起こるかどうか調べたところ、彼の手によると反応が見られたとして、1988年に雑誌 Nature に発表した。マスコミは、この現象を水には記憶する力があるとしてセンセーションを巻き起こしたが、その後の公開実験などで再現性は見られず、ベンベニスト事件として記憶に留められている。

この話をパスツール研究所の友人MDから聞いた時に、うまく説明できないが不思議な気分が私を襲っていた。こういう実験は偶然驚くべき事実を見つけたというよりは、最初に水には記憶があるはずだという想定のもとにこのような実験をやったとしか考えられなかったからだ。つまり、彼がなぜそのような考えを抱くに至ったのかに強い興味が湧いていたのである。

今回、医学思想史の本(Maurice Tubiana "Histoire de la pensée médicale")を読んでいる時に、18世紀に新しい考えを実践したドイツ人医師に関する記述が出てきて、思わず膝を叩いた。
  
Samuel Hahnemann
(10 avril 1755 à Meissen, Allemagne - 1843 à Paris)

すでにご存知の方も多い領域だとは思うが、私はこれまでよく考えることもなく避けてきたところである。陶器の名産地で絵付師の息子として生れたサミュエル・ハーネマンが考えたホメオパシーという療法。一般の治療がアロパシーと言われ、ある症状を抑えるにはそれに抗するもので対処する(熱を下げるには解熱剤など)のに対して、ホメオパシーは"loi de similitude"という考え方を用いる。つまり、健康な人に症状を起こす物質こそ病気を治すのに使えるというものであるが、その毒とも言える物質の濃度を極端に薄め、出来上がった液体の中に毒が1分子も含まれないという条件のもとに・・・という件を読んだ時、これはまさにベンベニストがやったことと同じだとわかる。彼のアイディアはヨーロッパに根付いているハーネマンの思想に基づいていたのではないかと思わせるに充分である。ホメオパシーがどの程度の科学的根拠を持っているのかわからないが、本屋さんに行きその方向に足を伸ばしてみると関連の本で溢れている。信奉者が多いのかもしれない。

この話はそこで終らなかった。先日、近くの図書館に行き新聞・雑誌の切り抜きファイルを何気なく捲っていた時のこと、エイズ・ウイルスの発見者として有名なリュック・モンタニエLuc Montagnier氏のインタビュー記事が目に入ったので早速読んでみた。その中で、彼がベンベニストの「水の記憶」の仕事を再検討しようとしていることを知る。最近彼は「水の記憶」の仮説だけが説明できる現象を見つけたとして、この現象を否定するところから入っていくと何も起こらないだろう、むしろその存在を厳密に確かめる態度が必要なのではないかと語っている。病を持つ人がいる時に、現在説明ができないからといってそれを退けてしまってよいのか、という態度だろうか。さらに、細菌やウイルスの間でも「水の記憶」と同様に電磁波による情報交換が行われているのではないかと推測している。この生物学と物理学の交差するところに新しい分野があるのではないかと考えている。そして、この点に焦点を合わせた新しい概念に基づく研究所の設立を考えていて、中国やイタリアは興味を示しているがフランスは未だのようだ。

彼の新著”Les combats de la vie”(生命の戦い)の中では、この話をカール・セーガンのこの言葉で締めくくっている。

“Absence of evidence is not evidence of absence” (Carl Sagan)


この話を読んで、晩年にビタミンCによるがん治療を唱えて正統派の科学者としては晩節を汚したと見られているライナス・ポーリングを思い出したが、彼の場合はどのようなことになるのだろうか。この研究の行方を見守りたい。

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(14 avril 2008)

モンタニエ氏によると、フランスでは5人に一人がこの療法の信奉者(adepte)で、ホメオパシーの医師(médecin homéopathe)が1万8千人もいるとのこと。日本との違いを思い知らされる。


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(16 octobre 2010)

モンタニエ氏のグループが細菌のDNAを介する電磁波の発生に関する論文を発表していることをある方から教えられる。

Electromagnetic signals are produced by aqueous nanostructures derived from bacterial DNA sequences. Interdiscip Sci Comput Life Sci 1: 81–90, 2009

この内容については別ブログで紹介した。

「水の記憶」その後、モンタニエさんの試み(16 octobre 2010)




dimanche 13 avril 2008

ダーウィンの言葉からリチャード・ドーキンスへ


ダーウィンのこの言葉に出会った。
"I sometimes think that general and popular Treatises are almost as important for the progress of science as original work."
Charles Darwin in a 1865 letter to Thomas Henry Huxley
 (Edited by F. Burkhardt, et al., The Correspondence of Charles Darwin: Vol. 13, 1865, Cambridge UP)

この言葉はリチャード・ドーキンス(1941-)博士の次の言葉と完全に重なり、今、科学の外にいる者にとって大きな意味を以って迫ってくる。

「私は科学とその 『普及』とを明確に分離しないほうがよいと思っている。これまでは専門的な文献の中にしかでてこなかったアイディアを、くわしく解説するのは、むずかしい 仕事である。それには洞察にあふれた新しいことばのひねりとか、啓示に富んだたとえを必要とする。もし、ことばやたとえの新奇さを十分に追求するならば、 ついには新しい見方に到達するだろう。そして、新しい見方というものは、私が今さっき論じたように、それ自体として科学に対する独創的な貢献となりう る」 
リチャード・ドーキンス 「利己的な遺伝子」  1989年版へのまえがき




jeudi 10 avril 2008

カンギレムから病気、治癒を考える


カ ンギレムを読む。病気や治癒の考え方がわたしのこれまでの経験から得た考え方と近いものがある。病気や健康の定義、概念についての議論はいろいろ人から出 ているが、どこか思考実験的なところがあり、臨床にどれだけ貢献できるのかについては疑問が多い。確かに、臨床に近い人は定義など必要がないという考えに 見られるように、より現実的な思考をすることが多い印象がある。

病気になった後、完全に元に戻ることはない。それは人間がこの生を歩むことと同じである。病気はわれわれの生とともにある。そして、病気が終わった後には、 それ以前にあった規範とは異なる規範が表れる。あるいは、そのように治癒を捉える必要がある。 元に戻ることを望むのではなく、新しい生を積極的に受け入れるという姿勢が必要になるということである。このような考えには強く共振する。もう少し詳し く、この問題を考えてみてはどうか。

病んでいる方にとってもこの考えは有効な思想になるのではないだろうか。医療の側も、機能的に元に戻すことを目指しながらも、新しい規範に対応する必要があることを伝えるべきだろう。病める側のこの体を元に戻してほしいという言い方を聞く時、このことを想起する。

病気はなぜなくならないのか。さらに言えば、人間はなぜ死を運命づけられているのか。哲学者はこれらの問題についても解を出すことができるのだろうか。医学 はそれぞれの病気についての対応策を持っていることが多い。しかし、個々の病気についての知ではなく、病気に罹り、治り、あるいは死に至る過程に対する見 方、精神的な支えになるような思想を生み出すことは医学の埒外にある。哲学の使命は、そのあたりになるのだろうか。少し考えただけでも、大きな使命であ る。

これらの問題を考える 時、現状から始めないこと、「いま・そこ」にある問題を解決するためにどうするかという思考をしないこと。そこから始めると、大きなところには行きつかな いのではないかという感触があるからである。より本質的な問題を探りながら、そこを突き詰めることを先にやるべきだろう。応用に至る道はその後から開ける のではないかと考えているからだ。あまりにもナイーブな見方だろうか。




mardi 8 avril 2008

ピエール・アドーとゲーテ


研究所の帰り、散策をしてみたくなり、散策の後にはカフェに足を伸ばしたくなっていた。束の間の開放感が確かにそこにある。その後、本屋を覗く。新しいものなど今は読む気もしないのに。しかし中に入ると何かないかと探している目があるのを確認する。そこに飛び込んできたのがこの本であった。


御年86、ピエール・アドーさんの「生きること忘れるなかれ」である。副題にゲーテがあったので、今はそれどころではないとは思いつつ手に取っていた。実は2006年の暮れ、こちらに様子を見に来た時に彼の本 "La Philosophie comme manière de vivre" 「生き方としての哲学」に触れ、その中にある次のような言葉に心が震えたことがあるからだ。

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「古代人にとって、哲学とは体系の確立ではなく、生きる選択であり、変化の必要性である。・・・私はいつも哲学を世界の捉え方の変容と考えてきた。」 (ピエール・アドー)

「哲学とは体系の確立ではなく、自分自身の内、自分を取り巻く世界を何ものにもとらわれることなく観ることを一度決意することである。」 (ベルクソン:アドーによる引用)

「現在に生きること、それはこの世界を最後であるものとしてのみならず初めてのものとして見るように生きることである。世界をあたかも初めて見るように努めること、それは型にはまった見方を排すること、現実を在るがままに見る、とらわれることない視点を取り戻すこと、日頃見逃している世界の素晴らしさに気付くことである。」 (ピエール・アドー)

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今度の新著のもう一つのキーワードは、"exercice spirituel" という言葉。霊性を伴った精神の活動とか働かせ方というニュアンスだろうか。これは私がフランスの哲学者などが書く文章を読みながら浮かんだ言葉、「思考 運動」とも通じるものがあり興味を持ったということもあるのだろう。この言葉は、Louis Gernet (1882-1962)、Georges Friedmann (1902–1977)、昨年94歳で亡くなった Jean-Pierre Vernant らがすでに使っているという。

この言葉には宗教的な含みはなく、知性、想像、意志による活動で、それによって世界の見方の変更を迫り自らを変えることになるもの。つまり、知を得るためのものではなく、自らを築き上げる活動を意味している。この "s'informer" と "se former" の間の大きな違いに彼との最初の出会いで気付き、それをはっきりと理解できたことがその後につながる大きな理由になっている。その意味では彼には借りがあるということになるだろう。この精神のあり方が古代には生き生きとしてあり、それがゲーテの中にも見られるというのだ。そのあり方はこう言い換えることもできるだろう。

「過去の重みや未来の幻影に惑わされることなく、現在という瞬間に集中し、その一瞬一瞬を激しく生きること」

さらに私の状態を説明するのに日頃使っている表現 "le regard d'en haut" (上からの視点)が出てくる。それは今そこにあるものや出来事から距離をとり、より広い立場から見ようと自らに迫ることである。さらにである。ゲーテが変わることなく持ち続けたという "l'émerveillement devant la vie et l'existence" (人生や存在を前にして感嘆する心)。そこにはゲーテの人生への深い愛があり、"Memento mori" (N'oublie pas le mourir) ではなく、スピノザに 霊感を得た "Memento vivere" (Gedenke zu leben / N'oublie pas de vivre) を見るという。畳み掛けるようにこのような言葉が入ってきて、気が付いた時には出たばかりのその本を手に入れていた。こういうつながりでゲーテにも大きな興味が湧くことになる。この世には汲み尽くせぬものがあるということだろう。アドーさんにはまた借りが増えることになるのかもしれない。

lundi 7 avril 2008

今感じる現代哲学の問題


哲学に外から入ってきた者の目に映ること。こちらに来てから感じ続けていること。それは、哲学に入る切っ掛けになった動機と関係がある。知識の所有から始ま り、それで満足する哲学、あるいはそこから体系の確立に至る哲学。もし哲学がそういうものであれば、全く魅力を感じなかった。そうではなく、自らの生き方 に直接絡んでくるような哲学。世に溢れる安易な人生論ではなく、知の所有でもない哲学。知への欲求を持ち続け、それを自らの中に映し出しながら生きる姿を 変えていくという哲学。そういう形があることを知ったからこの道に入ったのだが、そういう哲学に大学での講義で出会うことはない。

その原因は、哲学が学問になってしまったことと深く関係があるのではないだろうか。あるいは、他の科学と同じように哲学を捉えている間は、わたしを満足させ る哲学は生まれないのではないか。大学の講義を聴いていて感じるのは、このことである。ただ、大学で行われている学問的な哲学を否定しているわけではな い。それは一つの極として重要であるが、それだけでは不充分ではないかということである。

哲学の復権を語るとすれば、哲学に関係のないところにいる者が興味を持つような提示が必要であり、それはわたしが感じたような要素を含むものでなければなら ないのではないかという感触がある。そのためには、そのような営みが日常的に実際に行われていなければならない。それができないようなシステムになっているところに大きな問題を見る。哲学ほど人間として生きる上で、社会の中で生きる上で有用なものはないという感想を持っている者として、残念なことである。 あるいは、哲学とはそのような星の下に生まれた営みなのだろうか。