vendredi 21 mars 2008

フランソワ・ダゴニェさんを聴く (6)


ダゴニェ氏は1950年頃、ディジョンで医学を勉強した。毎年、日中は病院で臨床をやっている20-25名の学生がいた。臨床と基礎科学が乖離することな く、両者を同時に学んだのである。ディジョンの学生は2-3人の患者を受け持ち、一日中患者の書記のような役目を担っていた。最初の2年を臨床から離れた 基礎科学を学ぶ現代の教育では得られない経験をしたようである。

それは、哲学から始めた彼がその立場から想像していた病気と医学からアプローチする病気との間の深淵を見たことである。病気とは痛みである。当時は抗生物質が出る前だったので、良性の病気でも治療法がなかった。

フーコーは『臨床の誕生』において、クサヴィエ・ビシャ(Xavier Bichat, 1771-1802) に重点を置き過ぎていると思う。本の執筆時に外科医だった彼の父親が亡くなったため、ビシャの中に父親を投影するということがあったのだろうか。


科学は外部化(extériorisation)を可能にしてきた。体の中の現象を、体を開けることなく外部に出して解析できるようになった。そのことが、患者の主体から離れた客観性を医学に持ち込むことになる。心臓病患者ではなく、心電図の波に変わり、肺炎患者はレントゲン写真に還元されたのである。

これに対して、カンギレムは 「病人がいて病気があるのであって、その逆ではない」 という言い方を生み出す。優れた臨床医は立派な装置を使うことなく、病気が生活態度や関連しないような兆候の中に表れていることを見つけ出す。つまり、検 査で明らかになる前に現れる兆候を掴むのが良い臨床ということになる。




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