mardi 1 avril 2008

フーコー、あるいはわかろうとすること、使おうとすること



ミシェル・フーコーがイタリアでのインタビューで語り、しばしば引用される個所がある。その言葉に力づけられる思いがする。それは彼の作品が誰に向けて書いているのかと問われて、フーコーが答えた次の言葉である。
「私はコミュニケーションのために言葉を使う術を知らない。その上、芸術作品に仕上げる才能も天才も持ち合わせていない。私は道具や家庭用品や武器を作っ ていることになる。私の本は各自の領域に利用できる道具を掘り出すことができる材料箱のようなものであることを願っている。・・・・『言葉と物』はよく読 まれたが、理解されたとはいえない本である。この本は科学史家や科学者に向けて書かれたので、2000人のための本であった。残念ながら、それ以上の人に 読まれたことになる。しかし、ノーベル賞受賞のジャコブのような科学者の役には立った。彼が書いた 『生命の論理』には生物学の歴史、言説、行為に関する章があるが、そこで私の本を利用したと語ってくれた。私は広い層に向かって書いてはいない。読者では なく利用者のために書くのである」

Dits et Ecrits, 1974
« Prisons et asiles dans le mécanisme du pouvoir. » Entretien en Italie
(Dits et Ecrits I, 1954-1975. p.1391-1392, Gallimard, 2001)

こ の言葉を聞くと彼の作品が非常に近くに感じられてくる。彼の作品の解釈に追われているだけでは彼の心に反するかのようだ。自分のわかる範囲で彼の言葉を自 らの思索の材料とし、自らの仕事に使い、自らの生きる糧にしなければ意味がないと言ってくれている。この態度は彼の作品に限らず、すべての場合に当ては まりそうである。わかろうとするだけではなく、使おうとすること。この二つの心の状態の違いは少し考えただけでも、途方もなく大きく見えてくる。

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Photo Source: Visages de la philosophie / Foucault (Louis Monier, 17-05-2001)



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