lundi 27 octobre 2008

ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーに触れる



散策に出る時に手にしたヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカー (Viktor von Weizsäcker: 21 April 1886 - 9 January 1957) の「病因論研究―心身相関の医学」("Studien zur Pathogenese")をメトロとカフェで読む。今回は解説から始めた。

彼はアウトサイダー的な立場を万事において取っていたという。そんな中、弟子や学会、教会に対して辛辣な言葉を吐くという複雑な人間であったようだ。また、保守的で論理的な社会が革新を排除しようとしていたところからか、ナチの台頭には革命の期待を抱いていた節がある。さらに、ナチによる優生手術、遺伝的精神病者の安楽死に対しても否定的ではなかったし、むしろ遺伝疾患に対する強制避妊手術に対しては歓迎の意を示していたという。また全体のための個の犠牲にも同調していた記述が残っている。その後、このような物質主義的ダーウィニズムを非難するようになるが、、、彼への興味は病気をどのように見ようとしていたのかという一点であったが、新たに社会との複雑な関係が現れた。これから問題になるだろう。

豊富な臨床経験から病気に対する考えが次第にまとまりを見せてくる。彼の考え方は、心の活動を身体面から説明しようとしたり(身体因論)、逆に身体の変化を心の側から説明しようとする心因論でも、心と体が相互に反応しあうという心身平行論でもなかった。むしろ、心と体を持つ有機体が環境に接する時に相互に代替可能であるとする心身相関論を基にしているという。さらに原因と見えるもの、結果に見えるものが実はつながっていて環を成す形態をとっているとするゲシュタルトクライス "Gestaltkreis" という概念を提唱することになる。

この本の中に少し立ち止まるところがあった。それは次のような記述に出会った時である。

「われわれは、いろいろな機能をもっているから生きているのではない。生きているからいろいろな機能をもっているのである。機能や活動が障害されるから病気になるのではない。病気になるから機能や活動も障害されるのである。」

これをどのように解釈すればよいのか、考えさせられたのである。まず、生きていること、病気になることに重きが置かれている。科学的に見ると、例えば病気の主原因が一つの遺伝子の変化や明らかな外因であるような場合は機能が障害されるから病気になると考えてよいだろう。しかし、それ以外の多くの病気については彼の見方には真理があるように感じる。病気に主体を置き、病気になることは健康な時とは別のやり方で環境に対することになると考えている。病気に創造性を見るカンギレムにも通じるようだが、そこまで積極的に解釈しているのかもう少し読んでみないとわからない。

また多くの病歴を見ていく中で、心と体の基盤となっている患者の生活史に目を向けなければならないという考えに至っている。つまり、病気をその人間の人生におけるひとつのドラマとして捉え直さなければならないという立場である。病気の分子論的な解析、心理的な解析という局所的な視点ではなく、患者を長い時間軸の中に置き直して「なぜよりによって今なのか?」("Warum gerade jetzt?")を問わなければならないとしている。訳者らは、非線形理論、カオス理論の医学への応用も視野に入れていかなければならないが、そのためには両者の脱皮が必要だと考えている。

今日のお話は、ヴァイツゼッカーへの入り口に着いたようなものである。
彼の人間像とあわせてその考えをもう少し読み進みたい。







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