mardi 10 février 2009

科学がなくなることはあるか?

Michel Serres (né le 1er septembre 1930)


歯科の待合室にあった雑誌に目を通す。自らが経験したここ数十年の流れを見ても、尽きることのない人間の好奇心がその原動力になっている科学の営みに衰えを感じることはなく、むしろその行き過ぎに目を見張らなければならないと感じ始めている。そんな中、この雑誌の疑問はそれとは逆の懸念に思え、興味を持って読んでみた。

この質問に答えているのは、哲学者で歴史家のミシェル・セールさん。77歳。
クレアモン・フェランではミシェル・フーコーと一緒に教えていたこともあり、ヴァンセンヌの新大学にも参画する。1969年からパリ第一大学の科学史教授、 1984年からはスタンフォード大学で教える。1990年にはアカデミー・フランセーズ会員に。私もお世話になっているウィキペディアの賛同者でもある。

今日の質問に対する答えは、Oui。歴史的に見ると、ある時期、ある場所で科学の営みが途絶えたことがある。例えば、紀元前5世紀にアテネの学院は閉鎖され、ほとんどの知識人は中東に移って行った。ここでギリシャの科学は終わりを告げ、ギリシャは退廃へと向かう。しかし科学自体は歩みを止めず、サマルカンド、バクダッド、、へと受け継がれていく。紀元622年のヒジュラからはイスラムの科学がルネサンス前期まで輝きを増していく。そしてルネサンスを向かえ、ヨーロッパがその後を継ぎ科学を素晴らしいものへ発展させることになる。したがって、科学とは諸科学の歴史と言えるだろう。ある場所で始まり、それがいろいろな場所に受け継がれ、結局3000年に亘ってその歩みを止めなかった営みである。数学を例にとると、発祥の地ギリシャからバクダッドへ、バクダッドからサマルカンド、シラクサやアレキサンドリアへという具合である。天文学、力学、幾何学、代数学、錬金術・化学、物理学なども同様である。

逆に他の文化的活動は中断させられている。例えば、言語、政治形態、宗教など。宗教で言えば、宗教の原理主義は科学の敵にはならないだろう。それが重要だと言う人は、歴史を知らないからである。エジプトやギリシャの科学はすでに贋物を研究するためにできていた。さらに16-17世紀には人気のあった星占いに対しても戦っていた記録がある。科学はいつも偽科学と戦う要素を持っているようである。また、政治的な原理主義はすでにギリシャ時代からあり、6-7人の賢者が裁判に掛けられている。そこではシテのための仕事もしないで空ばかり見ているというのが罪状であった。「ソクラテスの弁明」を読み直してもらいたい。そこには自然を研究しているというだけで罪になっている話が出ている。

現代の科学にとって危険なのは、むしろ特許主義や企業による秘密主義だろう。科学が公開性を重んじて発展してきたことに逆行するように見えるからだ。現代の経済至上主義が科学をその方向に向かわせていて、発展のためのブレーキになっている。

科学には、常に前に進むことを止めない他には例を見ないダイナミズムがある。しかもその運動はしばしば指数関数的に増大し、膨大な成果を上げている。それは経済や宗教、文学、、、を超えるものである。

(2008年 05月 28日)




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