samedi 2 janvier 2010

エネルゲイアをわれわれの生に取り込む



2010年を迎えた。こちらに来てからの印象は、一言で言えば、日々が満ちているというものだ。どこかに向かうために今ここにいるのではなく、今ここにあること自体が存在理由になっているという感覚だろうか。目的地がないのだから、現在が未来の犠牲になるという感覚がなくなる。最大の関心事は、今をいかに満ちたものにするのかという一点に絞られてくる。この視点は、日常のすべての時間に意味を持たせてくれる。今を味わわせて くれるようになる。

高度に発展し分業化の著しい社会において仕事を持つということは、目的地に向かうことを義務付けられている。そのため自分に意味のある時間とそれ以外の時間を分けざるを得なくなる。生きた時間と死んだ時間が生まれることになる。例えば、移動の時間などは本来的には重要ではなく、仕事から離れた意味のない時間として退けられる。それを救うのは、生きることを仕事とすることだろう。そう思えることだろう。なぜか今の生活は、生きることが仕事、という感覚を呼び覚ましてくれる。そこではすべての時間が生きた時間となる。一瞬一瞬を味わおうとするからだろう。「・・のために」 という視点が霞んでくるのだ。

したがって、どこに向かうのかは全くわからない。ただ、現在という瞬間に全身を浸すという営みを続けたその果てには、その存在が持っている生命の発露が見られるだろう。それがどのような形であれ、永遠の彼方にある最終的な姿にはその存在の奥に潜むこの宇宙に唯一無二の生命の創造性と言うべきものが顕れているはずである。命を生かすとは、実はそういうことかも知れない。このことに気付くと、本当に命を生かしているのか、命を生かすことができる空間に今いるのか、と自問せずにはいられなくなる。

この営みを難しくしているのが近・現代の社会ではないのかという指摘がある。効率主義が跋扈し、人は常にどこかに向かう存在として位置づけられているからだ。時間を厳密に分けなければ生きていけないと考えたとしても不思議ではない。目を覆うばかりのテレビの惨状は、それが意味のない時間の埋め合わせとして認知されているためなのだろうか。そんな思いの中、先月の日本で出会ったこの本を紐解いてみて、そこで展開されている議論が私のテーマの一つと重なっていることがわかった。




藤澤令夫 「ギリシャ哲学と現代 -世界観のありかた―」 (岩波新書、1980年)

そのテーマを一言で言うと、「物」・「客観的事実」と価値・倫理・道徳の乖離を克服する哲学を手にすることができないかということになる。著者の藤澤氏はそのヒントを得るために、この乖離が生まれることになった源を探ろうとして最終的にはギリシャに至る。ここで言われる「客観的事実」は科学的アプローチが導き出すもので、価値や道徳はわれわれの日常に根差したところから生まれる。少し広く解釈すると、文理の乖離にも繋がるものである。

この乖離があっても事がうまく進んでいれば問題はない。しかし、科学至上主義とも思える現代において、没価値をモットーとする科学が齎す弊害も多くなっている。その大きな理由は、全体から部分を引き離して解析するところがある科学という営みが、その価値や意味を考えることなく、部分のまま全体に適応しようとする結果ではないのかと考える。それに対して、哲学は存在するものを存在するものとして考察すると言ったアリストテレスの時代から、常に全体への 視線がある。

「物」と「心」の乖離は心身二元論の生みの親デカルトに端を発すると見るのが一般的だが、その根は遥か古代ギリシャにあると著者は言う。その一つは、レウキッポスデモクリトスによる原子論である。これに先立ち、パルメニデスは次のように考えた。生成とか消滅、さらに運動や性質の変化など感覚に現れる世界は虚妄とも言えるもので、そのまま信じてはならない。真に存在するものは、理性(ロゴス)の審判に耐える不滅・不変・不動の存在であると考え、理性と感覚を分け、前者の重要性を説いた。レウキッポスとデモクリトスは真に存在するもの、すなわち世界の真実を構成する究極の要素として原子を想定し、種々の現象や知覚はその形、組み合わせ、動きによって決まる架空の世界であると考えた。

もうひとつの根は、「主語・述語=実体・属性」として表わされるアリストテレスの世界の把握の仕方にあるという。それは、主語で示されるものが実体として独立に存在し、その属性が初めて述語として表わされるというもので、実体が属性から乖離して存在するという意味では彼が批判していた原子論と重なることになる。変化を重ねる世界の中で変わらない究極の実体を「物」として追及する科学の原型がここにできあがったと考えることができる。つまり、科学的思考とは、現象としての述語の基にある実体=主語を明らかにすることになる。

社会にも個人にも多くの問題を引き起こしていると想定される「物」と「価値」との乖離をどのように乗り越えるのか。そのための条件を著者の検討に従って見てみたい。まず第一に挙げているのが、全体的な視野の確保になる。科学が全体から切り出した部分を無批判に受け入れ、それをそのまま全体に適用するのではなく、また科学の知見を最初から拒否する反科学主義やロマン主義に陥るのでもなく、あくまでも科学知を尊重しながら、それを全体の中に位置付けること。

ここで問題になるのは、全体とは何かだろう。生物学の世界では、個体全体を対象にする研究も進んでいるが、現在の手法でどれだけ全体に迫ることができるだろうか。また、別の見方をすると、全体は部分を総合した時にしか現れない可能性もある。もしそうだとしたら、全体は永久にわれわれの手元には届かないことになる。ただ、すべてのものが全体の一部としてあり、部分としては存在しないとすれば、あくまでも全体をありのままに捉えようとする精神が不可欠であることは言えるだろう。そこでもう一つ大切になる条件が、「物」がまず存在し、その下に「価値」が備わっているのではなく、「価値」を世界の根底に据える見方になる。

それから、二元論の元にある「物」の解体ということも条件にあげている。それは、ホワイトヘッド言うところの "senseless, valueless, purposeless"(感覚のない、価値とは無関係な、目的のない)である「物」という概念を拒否し、「物」自体に価値と尊厳を付与しようとする動きになる。

このような世界観の原型がプラトンに認められるとして、イデア論に触れている。そこでは、善く生きることを目指したソクラテスの哲学から出発し、善と人間存在とを異なる次元に置くのではなく、最初から不可分なものとして捉える視線がある。彼は、心・魂、あるいは命に対応する「プシューケー」と身体、あるいは「物」を意味する「ソーマ」の対立で世界を捉えようとした。そこで彼が批判したのは、自然の基礎にあるのは「プシューケー」を持たない「物」であり、その偶然の結合により後から生物や宇宙、さらにはそれに伴う「価値」が生まれたとする自然主義的な無神論であるという。プラトンはこの考えを逆転させ、「プシューケー」こそがこの宇宙における第一義的なもので、「物」、「ソーマ」はその後に生まれたものであるとした。「プシューケー」を基にして世界が一体となっているイメージが浮かんでくる。




そして最後に、世界を「主語・述語=実体・属性」として表現したアリストテレスの哲学について検討している。この図式からわかるように、彼はプラトンとは異なり、自然の理解に関わる学問(自然学、第一哲学=形而上学など)と人間の生き方、あり方に関わる学問(倫理学、政治学など)を厳密に分ける態度をとっていた。彼の中では科学的事実と価値が乖離していたことになる。ただ、自然学、形而上学の原理として目的・価値が組み込まれており、最高価値・神がその価値を元にして世界における事実を支配していると捉えられていた。彼が原子論を批判したのも、それが究極の物質主義であり、善の原理を排除した世界観だったからかもしれない。

ここで、アリストテレスの造語になる 「エネルゲイア」(energeia) の思想が取り上げられている。エネルギーの語源にもなっているが、そこからはなかなか理解できない言葉である。日本語では現実性、現実態などと訳され、英語では "being at work" と訳されたり、単純に "activity"、"actuality" とされることもあるという。彼はこの言葉の対立概念として、可能性、可能態などと訳される「デュナミス」(dunamis / dynamis) を導入している。しかし、ここでは「キーネーシス」(動き、運動)という概念と対比しながらこれまでの問題について考えている。

その理由は、最初に触れたように現代社会を覆う効率主義により、時間や空間の感覚が歪められていると考えているからである。単純な移動、単なる運動としての動きは、ある意味では「物」としてのもので、人間が行うものとは異なっているのではないか。人間にはこの「キーネーシス」とは別の在り方が求められているのではないか。常にどこかに向かう状態、したがって常に不完全の状態にある「キーネーシス」ではなく、あることを行うと同時に完結しているような状態(「すると同時に、してしまっている」と表現されている)「エネルゲイア」こそ、われわれが必要としているものではないかと考えている。この両者の違いをまとめると、次のようになる。

1) キーネーシスはその行為自体が目的ではないが、エネルゲイアはそれ自身が目的であり、目的が行為の中に内在する。
2) キーネーシスの場合には、現在と完了が乖離するが、エネルゲイアの場合には、現在において完了してしまう。
3) キーネーシスは目的に至るまでは常に未完成だが、エネルゲイアはいつも完了し、完全である。
4) キーネーシスは時間の内にあるが、エネルゲイアは時間とは無縁である。
5) キーネーシスには速い遅いがあるが、エネルゲイアには速さ、遅さがない。

これらすべては同じことを言っているように見える。すなわち、目的が行為の外にある場合と行為自身が目的になっている場合の違い。それをやっていること自体に意味があるような場合、そこで目的が完結してしまう。現在進行していること自体がひとつの完成型を成している。このエネルゲイアに当たる行為こそ、どこかに行くというキーネーシスを余儀なくされている現代に求められているのではないか、と著者は言いたいようだ。そして、エネルゲイアにおいて魂・精神の活動が不可分に伴っていることを考える時、先に触れたプシューケーの活動との共通性を見ることになる。

仕事をすることをどこかに向かう行為と捉えるのか。人が生きるということを、その最後までのキーネーシスとして捉えるのか。近・現代はわれわれにこのキーネーシスによる生き方を強いているように見える。そのことに気付き、そこから脱出するヒントを与えてくれるのが、エネルゲイアとキーネーシスの対比にあるような気がする。

ところで、私の求めていた二元論の克服についての解は、はっきりとした形では見つからなかった印象がある。ただ、こんなことは言えそうである。全体から部分を取り出し、そこで起こっていることを明らかにすることに長けている科学はこれからも力を発揮していくだろう。そこで得られた知はあくまでも尊重し、その上で必要なことは、科学者が科学の中に埋没し、しばしば失いがちになる全体への視線を指摘し続けることではないだろうか。そこでは文理を超えた人の実質的な交流が不可欠になるだろう。キーネーシスではなく、エネルゲイアとして。





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