dimanche 16 mai 2010

専門と責任の関連を考える


" Paysage " (2009)
de Alexandre Popov (1967-)


その時、強烈なイメージが浮かんでいた。仕事を辞めるに当たり、これからを模索していた時のことである。自分の頭の中が天空のように広がり、それまでに生きてきた領域がそこにはっきりと示されていたのだ。そして、そのイメージの中での割合がほんの数パーセントにしか過ぎないことに驚いていた。仕事を続けるということは、その数パーセントの中をさらに深く掘り進まなければならないことを意味している。残りの部分に目もくれずに進んで、最後に満たされるのだろうかという疑念が生まれていた。それに代わる道が学生になることだとは夢にも想像していなかったが、後にその疑念を晴らす一つの可能性として浮かび上がることになった。

先日、仕事をしながら自らの疑問をもとに研究を進めている方から問い合わせがあった。その疑問とは、言語の起源について。実は昨年もお便りをいただいている。どうして私のような素人のところに、という思いは消えない。同時に、市井には優れた方がたくさん活動されていることを思い知らされる。職業研究者の時にはこのような問い合わせに対してどう対応していただろうか。おそらく専門外としてお断りしていたのではないかと想像される。しかし、今はすべてが研究対象とでも思っているのか、関連する資料に当たることに抵抗がなくなっている。

そしてこの連休、フィリップ・クリルスキーさんの "Le Temps de l'altruisme"(「利他主義のとき」)に目を通していた。その中でクリルスキーさんは、危機や人間の不幸・悲惨に対処する安定したシステム構築について、親切心と利他主義の違いをもとに論じている。そこでは、アマルティア・センさんの概念としての(絶対的な)自由 La liberté と個々の自由 Les libertés の違いと同様に考えている。親切心とは、個人の自由の範囲の中での態度になり、親切な行いが成されることもあるし、そうでないこともある。個人の自由に任されている。善意という言葉で表わされるものと重なりそうだ。それに対して利他主義は義務の色彩が強くなる。人間に課せられた考え方として捉えなければならないとしている。

したがって、システムを人の親切心に委ねた場合には不安定なものにしかならず、時として背後にある悲惨を覆い隠す役割 (cache-misère) さえ果たすことになる。安定したシステムを維持しようとした場合には、利他主義が必要になると彼は考えている。それはわれわれに考え方の大きな変更を迫るものになるだろう。

今朝、この二つのことが結びついたところで目が覚めた。それは、責任を果たす、あるいは自由意志に依るのではなく他者に思いを致す利他主義を実践するためには、専門性の中から飛び出さなければならないのではないか、というものである。現代人はスペシャリストとして生きざるを得なくなっている。スペシャリストを礼賛するような番組もあったように記憶している。果たしてそれでよいのだろうか、という疑念とも繋がる考えになる。

以下は、飽くまでも自らの経験をもとにした反省と想像に基づくものである。

専門に生きるということは、頭の中が「これ」と「それ以外」に仕切られた状態になる。稀な例を除いて、「それ以外」に注意を払っている余裕などなくなる。そして、それが常態になるとそのことさえ意識しなくなる。それこそが自分の姿だと思い込むことになる。そこでは何が起こるだろうか。自らに関係のないところへの視線が消え失せ、人間として考えなければならないことを蔑にしがちになる。

責任とか利他主義が満たされるためには、まず一人になり自らの中をじっくり覗くこと。その上で「それ以外」への視線を取り戻すことが必要条件になるのではないだろうか。そのためには、自らの中にある専門の枠を取り払うという作業が必須になるだろう。そんな思いが巡っていた。これはまさに「一つのすべてではなく(tout d'une chose)、すべてをすこしづつ (peu de tout)」というパスカルの考えとも一致する。それから、ディドロの人生を特徴づける「すべてに触れる (touche-à-tout)」という姿勢にも繋がる。

これは百科全書派のような態度を取り戻す、と換言できるかもしれない。しかし、それはすべてを知りましょうという姿勢ではなく(それは望んでも無理だろう)、何かが目の前に現れ、そこに向かう時に障害になる自らの周りに張り巡らされている枠を取り払うことではないだろうか。クリルスキーさんは、科学で扱う対象を日常に出会う普通の対象として見るように主張していた。ここで言われている科学は仕事と置き換えることができる。そして、日常に出会うものとして見るということは、まさに専門の枠から出て頭全体を使うということを意味しているように感じる。

その視点を取り戻すと周りの景色は随分と変わってきそうである。それこそが本来あった姿になるだろう。自らの領域に閉じ籠り、その中でしかお話をしない状態では、考えるという運動が行われていない可能性がある。世界の中に在る、という意識が生まれ難い状態にあるだろう。その中から責任や利他主義に結びつく営みは生まれてくるだろうか。すべてが自らに関係していると気付くことがその第一歩になりそうである。


Aucun commentaire: