dimanche 27 juin 2010

ポール・ジョゼフ・バルテ、あるいは生気論のモンペリエ Paul-Joseph Barthez et le vitalisme


Paul-Joseph Barthez

(Montpellier, 11 décembre 1734 - Paris, 15 octobre 1806)


先日モンペリエで開かれた「医学における人文社会科学」の例会に参加。会の初日に大学の見学があった。その中で La Salle de Conseil (理事会室)で興味深い方と対面した。上の肖像画に描かれているポール・ジョセフ・バルテさんである。モンペリエの医学と言えば生気論というぼんやりとした結び付きは、頭のどこかにあった。しかし、この方がその主人公であることは今回の滞在で初めて知ることになった。

ただ、ウィキの生気論に行ってもその名は現れない。英語版のVitalism、ドイツ語版Vitalismusでも同様だ。フランス語版Vitalismeで初めてBarthezが引っ掛かってきた。近代の生気論と言えば、ハンス・ドリーシュ (Hans Driesch, 1867 - 1941) とエンテレヒー (Entelechy) という言葉がすぐに出てくるが、これは一体どういうことだろうか。この機会にモンペリエ大学医学部の案内を読んでみることにした。




13世紀に正式に創設された医学部では、事実の観察とその哲学的解釈という二つの言葉に表わされる考え方を基礎に据えている。その中心にいるのがポール・ジョゼフ・バルテであった。すでにここでも触れているが、この大学には古代ギリシャのヒポクラテスが生きている。そのヒポクラテスは学び、実践し、旅をし、教え、書き、そして人間の尊厳を守るための科学を築き上げた。その中には、人体の部分や知性とは別に、生体の統一性を保つ原因としての「生命力」があるいう考えが含まれている。生気論の源流はこのあたりにあるようだ。バルテは生命原理(principe vital)という概念を中心としたヒポクラテスへ回帰する説を唱え、これがモンペリエの生気論として1世紀にも渡りヨーロッパに広がることになる。

バルテは父親とともに、ディドロとダランベールの百科全書に執筆している。モンペリエで教えるようになると、フランシス・ベーコン (1561 - 1626) の経験や観察から出発する帰納法とトマス・リード (1710 - 1796) の認識論を取り入れ、17世紀の二元論と決別する。すなわち、生命現象を物理化学的な原理に還元する方向と生命現象の原因を精神の出来事に求めるアニミズムの方向という二つの対極から離れ、現象の調和から生命活動の統一性、心と身の統合を目指すようになる。

1778年の著作 Nouveaux Éléments de la science de l’homme (人間科学の新たな要素)では、人間を構成する要素として、物質的なもの、思索する精神、そして生命原理をあげ、それを生命全体を動かすまとまりとして捉えている。ヒポクラテスは局所の病気はなく、全身が病み、全身がそれを治すと考えた。ヒポクラテスの「生命力」という考え方を新しくすることにより、彼は生命を構成する現象を全体として研究する学問、生理学を始めている。また、ガリレオの物理学が宇宙と人間を分離した後、バルテは人間を環境の中にあり、その環境と相互に反応し合う存在として捉える関係の医学哲学を再導入した。



医学部正面玄関向かって右のバルテさん



彼は人間をより広い視点から見直した。その際、あくまでも個々の現象の観察から始まる帰納法を重視し、そこから原理を抽出するために瞑想することになる。関係の哲学などは現代的でさえある。ただ、生命現象を説明する彼の生命原理は精神でもなく、物質的基盤もないとされる。18世紀から19世紀になると新しい実験方法が導入され、発見が相次ぐようになる。病気も局所に由来するものとされ、細胞がその場として登場する。このような背景の中、彼の考えは忘れ去られるようになる。特に、外国ではその傾向が強かったのかもしれない。

21世紀に入った今、還元主義や物質主義にいろいろな問題が指摘されるようになっている。18世紀に生きたこの人物が一体何をどのように考えていたのか、もう少し知りたくなっていた。



正面玄関左にいたのは、バルテさんとともにモンペリエ医学の基礎を築いた外科のフランソワ・ド・ラペイロニさんであったことを最後に知ることになった。初日には全く意味を持たなかった二つの銅像がこのような世界に導いてくれる。移動はいつも興味深いものである。


Aucun commentaire: