mardi 18 janvier 2011

瞑想生活のある社会 La société avec la vie contemplative


La vie de l'esprit de Hannah Arendt
(14. Oktober 1906 in Linden - 4. Dezember 1975 in New York)


先日、外出前にハンナ・アーレント(Hannah Arendt)のLa vie de l'esprit (精神の生活)の最初の方を何気なく眺めた。そこに、こちらに来る数年前に初めてはっきり意識した動的生活と静的(瞑想・観想)生活の対比が書かれ、12世紀の神学者サン・ヴィクトルのフーゴーHugues de Saint-Victor, 1096-1141)が引用されている。

  
Duae sunt vitae, activa et contemplativa.
Activa est in labore, contemplativa in requie.
Activa in publico, contemplative in deserto.
Activa in necessitate proximi, contemplativa in visione Dei.

動的と瞑想的な二つの生活がある。
動的生活は厄介なことが多いが、瞑想生活は完全な静寂の中で行われる。
動的生活は人に囲まれているが、瞑想生活は人一人いないところで行われる。
動的生活は身近な必要に迫られるものだが、瞑想生活は神の視線に捧げられる。


瞑想生活は精神の最も高いところにあるという認識は、西洋哲学の歴史とともにあった極めて古いものである。プラトンが考えると言う時、静寂の中で行われる自らとの対話を意味し、精神を開くために必須になる。つまり、考えることは瞑想を目指すもので、瞑想とは能動的なものではなく、静的で受動的なものである。精神活動が休息を見出す時でもある。

これを人間が構成する社会や国に当て嵌めるとどうなるだろうか。社会の精神が最高のところに至るためには日常に追われる動的生活だけでは不十分であり、瞑想生活を取り入れなければならないことになる。社会の瞑想生活とは日常を超えた形に見えないものについてわれわれが想いを巡らし、そこで共有された想いがわれわれの上に見えることが必要になる。そして、それとの対比で日常生活を送り、地上と天上の二つの世界を意識して社会の動きを見ることになる。それが瞑想生活のある社会のイメージになる。

それが実現するかどうかは、集団を作っている個人が瞑想生活の重要性に気付き、それぞれが瞑想生活を取り込んでいるかどうかに懸かってくる。そういう個人の生活がなければそれを社会に要求することは難しいだろう。突き詰めると、やはり個人の問題になる。日本の政治指導者の世界観や哲学の欠如という批判がされているが、それはおそらく正しいのだろう。ただ、同時に考えなければならないのは、われわれの精神生活がその批判に耐えるものになっているかどうかではないだろうか。瞑想によりこの世界の根源的な問題について考える時間を持っているかどうかが問題になる。そういう人間が増えなければ、いつまでも選択を誤ることになるだろう。

最高の社会が瞑想生活を取り込んだ社会だとすると、それは教育によるしかないような気がしてくる。科学だけではなく、それと並行して、歴史、哲学、文学などの教養が善く生きるために不可欠であるという教育に。個人の生活に瞑想生活が入るという変化が社会を動かす人の選択に反映され、それがさらに個人の生活に跳ね返ってくるという好循環に至るまでには相当の時間が掛りそうである。それだけにこの問題を考えて形にすることが急がれるように感じている。


ところで、今回ハンナ・アーレントの言葉を聞いている時、こちらに響いてくるものがあることを感じる。この方との付き合いはこれからも続きそうな予感がしている。


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