samedi 19 février 2011

政治と哲学の不可思議な関係: アラン・バディウさんの見方



先日、アラン・バディウAlain Badiou ; né à Rabat, Maroc, le 17 janvier 1937)さんのこの本に出会う。

La relation énigmatique entre politique et philosophie (Germina, 2011)

久しぶりにパリの時間が流れる中、バディウさんの議論に集中できているのに驚きながら、その場で本のタイトルにもなっている最初のエッセイを読み終える。以下に思いつくまま綴ってみたい。

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哲学が生まれるためには哲学ではない事実が必要になるが、それはしばしば科学である。例えば、プラトンデカルトライプニッツにとっての数学、カントホワイトヘッドポパーの物理学、ニーチェベルグソンドゥルーズの生物学など。これらはバディウさんが言うところの哲学の 「条件」 となるが、ご本人は科学の他に政治、芸術、愛を哲学の条件としている。具体的には、「無限」 についての新しい概念、革命的政治の新しい形式、マラルメランボーフェルナンド・ペソアオシップ・マンデリシュタームウォレス・スティーヴンスの詩やサミュエル・ベケットの文体、そして新しい愛の形を彼は哲学している。

哲学は常に非哲学的なもの(すなわち 「条件」)の後を追っている。ヘーゲルがなぜミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛び立つという話を持ち出したのかがよくわかる。知識、経験、実生活が進行する明るい時間が終わった後に初めて哲学が現れるからである。ドゥルーズも科学が出した知を統合することが哲学の役割であるとしている。したがって、哲学の未来はその条件にいかに適応するかにかかっている。哲学が動き出すのは、新しい知が生まれてくる時、あるいは文明が疲弊し、未来が見え難くなる時である。バディウさんの師であるアルチュセールは、哲学は科学に依存する、哲学には歴史はなく常に同じものである、したがって哲学の未来は過去であり、同じことの繰り返しだ、と言っているという。

哲学の歴史を一瞥すると、デカルトの後の形而上学は科学を必要とし、カントの後には古典的な形而上学が不可能になり、ウィトゲンシュタインの後には言語の哲学を無視できなくなるという不可逆的な流れに見える。しかし、それは絶対的なものではなく、過去と現在が繋がることもある。例えば、ドゥルーズの中にライプニッツやスピノザを、サルトルの中にデカルト、ヘーゲルを、メルロ・ポンティの中にプラトン、ヘーゲルを、そしてスラヴォイ・ジジェクの中にカント、シェリングを見るのである。

それでは、アルチュセールの言う同じこととは何だろうか。ひとつは哲学が反省による知であるとする立場で、真理に関する理論的な知と価値に関する実践的な知を求めるもの。ここでは教授による学校教育による学習や伝達が必要になり、このことは古代ギリシャからよく理解されている。第二の立場は、哲学とは理論的・実践的知ではなく、個人の変容、根源的な改宗、存在の動転、あるいは芸術的創造性などで、方法は合理的だが宗教、愛、政治的アンガジュマンに近く、行動と結び付くものである。こちらは学校での学習には馴染まず、人から人へ個人レベルで自由に語られるものである。丁度、ソクラテスがアテネの街角で若者に語りかけたように。

ソクラテスはそのため若者を堕落させた罪で死刑を言い渡される。この堕落の罪とは、すでに確立されていることに盲目的に従うことを拒絶できること、社会の規範に対する考えを変える手段があること、模倣や承認に代わり討論や合理的批判を取り入れること、そして事が原理原則に関わることであれば服従ではなく反抗を選択できることを教えたことである。ここでの反抗は野放図で過激なものではなく、アルチュール・ランボーの言う "révoltes logiques" (論理的反抗)である。

マルクス主義者アルチュセールにとって、唯物論こそ革命的であり、観念論は観察者に留まるもので悪であった。このように哲学的行動には規範が伴い、知識と意見、正しい意見と間違った意見、真と偽、智慧と愚行、肯定的立場と批判的立場の分離と識別がある。また、哲学にはすべての理論的・実戦的な経験を再構成する性質があり、既存の秩序を転覆する可能性が潜んでいる。反逆することに理があれば、ヒエラルキーの逆転が起こり得るのである。




ここで哲学と政治の関係を眺めてみたい。哲学が自由な思考、民主的な営みを条件にしているのに対して、政治は必ずしも民主的ではない。古代ギリシャにおいて、哲学の前提は民主制であり、哲学にとっての政治は省察の対象であった。民主制が自由を求めるのに対して、哲学は真理を求める。もし政治に真理があるとすれば、そこには義務が含まれ、自由が制限される。それでは、なぜ民主制が哲学の前提になるのだろうか。哲学では語る人の出自は一切関係がなく、語る中身が問われるからである。真理の探究がすべての人に分け隔てなく開かれているからである。ただ、この精神は平等だが、すべての意見が同等に扱われるわけではない。哲学では意見と真理を区別する。多数の意見と真理の普遍性とを区別する。一方、政治においては平等と普遍性が求められるが、それが正義になる。正義においては自由よりも平等が重要になる。普遍性が個別性より重視される。つまり、正義と自由は必ずしも相容れず、民主制を個人の自由の表現だと定義すると問題が生じるのである。

以前に別ブログで少しだけ触れたフランス革命の1792年から94年に及ぶロベスピエールを中心とするジャコバンによる恐怖政治を見てみよう。ここには個別性と普遍性の対立があった。サン・ジュストは徳が失われたところには恐怖が不可避で、それを正統化するのが大衆の意志だとした。その結果、個人の自由の上に平等を、個々の利益の上に普遍性を据え、その目的のために頑ななまでに恐怖政治を遂行することになった。

そこでバディウさんは言う。現代社会には多くの不平等が罷り通っていて正義はない。その意味ではジャコバンが言った徳をわれわれは持っていないのである。サン・ジュストの問い掛け、徳も恐怖も望まない人は何を望むのか、に対する答えは 「腐敗」 だったのだ。この腐敗をバディウさんは精神的なものと理解している。すべての原理に照らしておかしなことが行われているにもかかわらず、そこで利益を得ている多数の人たちはあたかも最良の世界にいるかのように、反抗する者や外から入ってきた適応できない者が迫害されるのを見過ごすのである。

 民主制 ⇒ 哲学 → 政治(正義)

民主制は哲学の上流にある。一方、正義は民主制と直接の関係はなく、政治の領域の真理に付けられた哲学的名称である。それ故、哲学と政治と民主制の関係が曖昧になるのである。

数学では先ず公理を選ぶ自由が与えられるが、一旦選ぶとそれから先は論理に基づいて決定され、その結果を受け入れなければならない。ある意味では、そこに普遍的な平等が見られる。最初に革命か保守か、個人か集団かの選択があり、その後の結果がどんなものであれ受け入れることになる。その過程では、意見の表明や個人の生活の自由を犠牲にして原理の達成に務めるが、最後に辿り着くのは民主的な体制ではなく、敵を粛正する独裁制になるのである。つまり、民主制にはレーニンの言う最終的な形態としての民主制と集会やデモなどの集団で行動する手段としての民主制の二つの形がある。皮肉なことに、前者には革命的な要素も正義も見られなくなる。一方、後者は規範や目的を持たず、あくまでも政治的真理を見出すための一つの手段にしか過ぎないのである。


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