mercredi 12 octobre 2011

クリスチャン・ド・デューブさんの人生と世界観

Christian de Duve


クリスチャン・ド・デューブChristian René de Duve, né le 2 octobre 1917, en Angleterre)

著者はイギリス生まれのベルギー人で、細胞内小器官であるリソソームペルオキシソームの発見により1974年にノーベル医学生理学賞を受賞している。ベルギーのルーヴェン・カトリック大学Katholieke Universiteit Leuven) で研究の後、ニューヨークのロックフェラー大学でも研究室を持ち、大西洋を跨いで活躍された。1917年生まれなので、御歳94。


この本は簡素な自伝で、若き日の教育環境や研究生活を振り返り、いくつかの分岐点があったことを指摘している。そこにジャック・モノの言う偶然と必然の組み合せを見ている。細胞の生化学、細胞生物学に集中した後は次第に大きな絵に興味が移り、生命の起源、人類の歩み、脳機能、さらには 「意味」 についての思索へと進んで行く。

ド・デューブさんはわれわれの遺伝子の中には 「集団のエゴイズム」 が生き残っていると見ている。異なる者に対する攻撃性が潜んでいて、「遺伝子の原罪」 の虜になっているという。ド・デューブさんのお国も言語による対立が表面化している。また、「核ホロコースト」 という言葉を使って最近の日本の状況にも触れている。この状態を変える希望は、遺伝子の機能を後天的に変えるエピジェネティックな作用の中にあるのではないかと言っている。それは教育で、そのためには教育者が必要になる。教育者を求めるには師や賢者が必要になる。たとえそのような人が稀に見つかったとしても、その声に耳を傾ける人たちがいなければならない。

ド・ デューブさんは子供の頃、イエズス会で教育を受けている。それから科学の道に入り、後年ダーウィンの進化論を研究することになる。そして、80年の歳月を経て、教育者となるべき人が二千年前にすでにいたことを悟ることになる。それがキリストだと気付いたという。その教えが遺伝子の重荷からわれわれを救うと考えており、東洋にも例えば仏陀や孔子などの師がいるはずであると語っている。




現代にはいろいろな対立がある。両者の差異をなくそうとするのではなく (それは不可能だろう)、対立を認め、それを乗り越える方向性を探ることがこれからやらなければならないことだろう。そのためには、できるだけ多くの哲学者、道徳家、科学者、他の領域の思想家が 「知的誠実さ」 (l'honnêteté intellectuelle) を以って両者が合意できるところを探さなければならないと考えている。そして、ド・デューブさんにとって基本になるのはキリストの言葉である。この本では l'honnêteté intellectuelle という言葉が何度か使われており、その度に自らの心に問い掛けていた。

デカルトの心身二元論についての否定的な考えも語られている。死する身体と永遠の精神、物と心、res extansares cogitans。この異なるものが松果体で相互作用とするとデカルトは考えた。ド・デューブさんは単純に論理的に考えて行く。もし精神と物質が異なる本質を持つとした場合、どのようにして相互作用が可能になるのか、という疑問である。そして、物質と精神は異なるのではなく、一つの現実の別の面が現れたもので、この二元論は一元論にその場を譲らなければならないと結論している。

ド・デューブさんを煩わしたもうひとつの二元論がある。それは創造主 (神) とその作品が別物であるとする二元論である。19世紀初めにウィリアム・ペイリー (William Paley, 1743–1805) が 「自然神学」 の中で、時計の比喩を使って創造主の存在証明をしている。道に転がっている時計を見た時、その複雑な構造物はそれを造った人の存在を考えなければならない。同様に、宇宙の複雑な存在を目にした時、創造主を想定しないわけにはいかないと考えた。そこで出てくるのが、一体その創造主を誰が創造したのかという疑問だ。幹細胞のように、創造主が自分自身をも創造したのか。神学者が言うように、創造主は創造されるものではなく、そこにあるものなのか。あるいは、スピノザ (1632-1677) が唱える汎神論pantheism) のように、自然そのものが神なのか。物理学者の中には創造主を考えることなく、物理的な原理の想像を絶する偶然の成果として生命と知性が生れたとする新たな自然神学も生れている。ド・デューブさんは信仰やこれらの推測から距離を取り、上に述べた一元論で行きたいと考えている。



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