dimanche 30 décembre 2012

ウンベルト・エーコさんの世界観

Umberto Eco (1932-)
Photo : Serge Picard (partie)


昨日の散策中、トゥール市役所前のカフェが開いていたので暖を取る

そこで、駅のキオスクで買ったPhilosophie magazineウンベルト・エーコさんのインタビューを読む

エーコさんは、哲学教育を受けた記号論la sémiotique) 研究者

あらゆることに通じた彼は、考えることが愉しい営みであることを証明している、とある

以下、彼の言葉から

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哲学するとは、死との折り合いをつけること

***

重要な哲学者は、トマス・アクィナス(Thomas d'Aquin, 1224/25-1274)
その主張の内容ではなく、思考に秩序を与える論理性のモデルとして

***

記号論とは、現代哲学の形態である
 それは20世紀哲学を襲った言語論的転回 (linguistic turn / tournant linguistique)に向き合う最良の方法だから
 言葉で表現されたものと言葉との関係をどう見るのか
アングロ・サクソンの分析哲学は、純粋科学を真似て心的要素を排除した
言葉を純化し、外部にある物や状況の標識として以外には使用しない
存在しないものには興味がないのである
それに対して、記号論は分析哲学では問題にならない心的存在にも興味を示す
人間存在にとって避けることのできない文化的、道徳的、倫理的な側面も扱う
より複雑で、興味深い領域である

***

翻訳には解決されていない問題がある
原典は変わらないのに、なぜ翻訳は古くなるのか
それは、翻訳は一つの解釈であり、解釈は時代の制約を受けているからではないか
他の芸術と同じように、常に復元し、再解釈する必要があるのだ

***

 神なき倫理は可能かと問われれば、可能だと答える
それは体に基づく倫理である
体の要求に抵触しないかが問われる倫理である

***

記号とは、わたしの頭にあったものを他人の頭に入れることを可能にするもの
それは実在するものとは何の関係もない
存在しないが、真なるものは含まれるのである

***

ヨーロッパは多言語による脅威に晒されている
しかし、一つの言語に統一することでこの問題は解決できないだろう
 ヨーロッパには言語的にも精神的にも多言語を使う能力がある
多言語主義とは、異文化理解に向けて努めることを意味している
その観点からの貢献が可能ではないか

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やはり、記号論に関するところが興味深い

記号論的世界観には共振するところがある

ヨーロッパにいることで、多言語主義の影響を目に見えない形で受けている可能性があるのかもしれない

そんなことにも気付かされたヨーロピアンのお話であった




mardi 25 décembre 2012

レオナルド・サスキンドさんの 「ホログラムとしての世界」 を聴く



レオナルド・サスキンド (Leonard Susskind, 1940-)さんの話を聴く

聞こえてきた言葉:

ブラックホール

エントロピー

情報

ヤコブ・ベッケンシュタイン
Jacob Bekenstein, 1947-)

ひも理論

ピクセル

ボクセル

ホログラフィー

一つの現実の二つの表現

宇宙論


明快な言葉で語られた内容だったが、理解したとはとても言えない

ただ、理論物理学という領域のお話、どこか哲学のセミナーを聴くような印象がある

物理学が哲学から飛び立った当時を想像させるお話であった




lundi 24 décembre 2012

バディウさんによる現代フランス哲学


先日のリブレリーでのこと

アラン・バディウAlain Badiou, 1937-)さんのこの本に目が行く

La Fabrique, 2012)

早速イントロを読んでみた

バディウさんが身近な哲学者をどう見ているのかがわかり、興味深い

バディウさんが分析するフランス現代哲学の特徴の中には、わたしの深いところにある願いと響き合うものもある


哲学の歴史を振り返ると、特に重要な「時機」が二つある

一つはパルメニデスからアリストテレスに至る古代ギリシャの時代

それからカントからヘーゲルに至るドイツ観念論の時代

バディウさんは、そこに「現代フランス哲学」を加えようとしている

現代とは20世紀後半から現在までを指し、指標として二つの作品と次のような人物を挙げている

サルトル存在と無』 (1943)

ドゥルーズガタリとの共著) 『哲学とは何か』 (1991)

この間にいる人として

 バシュラールメルロー・ポンティレヴィ・ストロースアルチュセール

ラカンフーコーリオタールデリダ

この周辺から現在に繋がる人として

ジャン・リュック・ナンシーフィリップ・ラクー・ラバルトジャック・ランシエール、アラン・バディウ


その上で、「現代フランス哲学」の特徴について次の4点から解析する

(1)起源、(2)哲学的活動、(3)哲学と文学の関係、(4)哲学と精神分析の絶えざる議論


 (1)起源

20世紀後半からの哲学の起源を考える場合、20世紀の初めに戻らなけれはならない

そこに二つの源流が見えてくる

一つは、1911年にベルグソンがオックスフォードで行った講演 『思想と動くもの』(後に出版)

もう一つは、1912年にブランシュヴィックが発表した 『数理哲学の諸段階』

ベルグソンが生命の哲学を志向したのに対して、ブランシュヴィックは概念の哲学を提唱した

生命と概念の対立がフランス哲学の中心的課題で、それが主体の問題に繋がって行ったのである

それは、人間が生きた体であると同時に、概念を生み出すからである

さらに源流を遡るとすれば、最終的には哲学的に主体を確立したデカルトに辿り着く

彼は物理的な体についての理論を打ち立てただけではなく、省察についても理論化した

つまり、物理学と形而上学に興味を持った人物であったことになる

事実、20世紀後半にはデカルトについての膨大な議論があった


(2)哲学的活動

次に、この時期にどのように哲学が行われたのかについて考えてみよう

第一の鍵は、デカルトの遺産とともにドイツ哲学についての議論である

例えば、コジェーヴによるヘーゲルのセミナーにラカンやレヴィ・ストロースが興味を示したという

また、若き哲学者による現象学の発見がある

ベルリン滞在中にフッサールハイデッガーを読んだサルトル

 ニーチェが重要な哲学者だったフーコーやドゥルーズ

カントについて書いたリオタール、ラルドゥロー、ドゥルーズ、ラカン

何をするために彼らはドイツに向かったのか?

それは、概念と存在との新しい関係を探るためだったとバディウさんは言う

20世紀初めからフランス哲学の興味は生命と概念であった

両者の関係を新しい方法で解析できないかと考えたとしても不思議ではない


第二の鍵は、科学である

彼らは、単なる知の問題を扱う場合とは比較にならないほど広大で深いものが科学の中にあると考えた

科学を現象を明らかにするものとしてだけではなく、芸術活動にも匹敵する創造的活動のモデルとして捉えたのである

バシュラールが詩と同じように物理学と数学について考えたように


第三の鍵は、政治的活動である

この時期の哲学者のほとんどすべてが政治的問題を哲学しようとした

サルトル、戦後のメルロー・ポンティ、フーコー、アルチュセール、ドゥルーズ、

ラルドゥロー、ランシエール、クリスチャン・ジャンベ、フランソワーズ・プルースト、バディウ

彼らは概念と行動との関係を模索したのである


第四の鍵は、哲学を新しくすること

政治の現代化が語られる前に、哲学者たちは芸術、文化、習慣の変容を欲していた

哲学は抽象絵画、現代音楽、探偵小説、演劇、ジャズ、映画、性、生活スタイルに興味を持っていた

 と同時に、幾何学や論理学というような形式主義にも情熱を持っていた

 そこには概念と形の運動との新たな関係の模索が見られる

哲学の現代化を通して、哲学者たちは形の創造に繋がる新しい方法を探していたのである



(3)哲学と文学の関係

上の分析の中に形の問題が出てきた

 哲学と形の創造との間には密接な関係がある

形の中には哲学自体の形をも含む

新しい概念だけではなく、哲学が使う言葉の創造である

20世紀のフランス哲学における顕著な特徴として、哲学と文学との関係がある


この問題を少し長い時間軸で眺めてみる

例えば、18世紀のヴォルテールルソーディドロは文学者であるとともに哲学者であった

17世紀のパスカルも文学と哲学のどちらに属するのかわからないし、20世紀のアランも同類だろう

20世紀前半には哲学者と超現実主義者が接触した

思想と形の創造、生活、芸術との新たな関係をお互いが模索していたのである


最初は詩的なプログラムだったが、50-60年代には哲学的プログラムを準備した

哲学自体が文学的な形を見つけ出さなければならなかった

すべての哲学者が独自の表現を求めたのである

フーコー、ドゥルーズ、デリダ、ラカン、サルトル、アルチュセール、、、

そして、哲学と文学が、概念と生の経験が混然一体となったような新しい表現法が創られた

そのことにより、文学的な生に概念が与えられることになったのである


そこから生まれた主体は、デカルトに由来する理性的で意識を持った主体でも内省的な主体でもない

もっと曖昧で、もっと生や体に結びついた、より創造的で生産的な、もっと大きな力を含んだものである

それこそが、フランス哲学が見つけ、表現し、考えようとしたものであった

そこで重要になってきたのが、意識よりさらに広大な無意識を発見したフロイトの精神分析である



(4)哲学と精神分析の関係

ということで、20世紀後半のフランス哲学は精神分析と議論することになる

それは20世紀初頭からの二つの流れに対応する

一つは、ベルグソンに始まる実存主義的生気論で、サルトル、フーコー、ドゥルーズに繋がる流れ

もう一つは、ブランシュヴィック、アルチュセール、ラカンの概念の形式主義の流れ

この二つの流れを跨ぐのは、概念を持つ存在としての主体である

フロイトの無意識が、まさにそこに関わってくる

哲学と精神分析との関係は、愛を伴った共犯関係であると同時に憎しみを伴う競合関係になったのである


ここで3つのテキストを挙げてみたい

一つは、バシュラールが1938年に出した『火の精神分析』

ここでバシュラールは、フロイトに見られる性を夢に置き換えた新しい精神分析を目指した

二つ目は、サルトルがその最後で「実存的精神分析」を提唱した『存在と無』(1943)

この中で、フロイトの実証的な精神分析に対して、真に理論的な精神分析をぶつけた

サルトルにとっての主体とは、根源的なプロジェ、存在を創り上げるプロジェであった

三つ目は、ドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』(1972)

ドゥルーズは、「スキゾ分析(schizoanalyse)」と呼ぶ新たな方法で精神分析を行うことを提唱したのである



バディウさんによると、「現代フランス哲学」のプログラムには共通の特徴が見られるという

第一に、最早概念と存在の乖離がなくなったこと

彼らは、概念が過程であり、出来事であり、創造であり、生きていていることを示したのである

第二に、哲学を現代の中に組み込んだこと

つまり、哲学をアカデミアから取り出し、生の中に循環させた

性的、芸術的、政治的、科学的、社会的な現代性の中に哲学を投げ入れたのである

第三に、知の哲学と行動の哲学との対立を捨て去ったこと

つまり、理論と実践の垣根を取り払ったのである

第四に、哲学を政治哲学を経由せずに、政治的な場面に置いたこと

 それは、政治について省察するだけではなく、新しい政治的主体を可能にするために「関わる」ことを意味した

第五に、主体の問題を再び取り上げ、内省的な主体を捨てたこと

意識に還元できない主体、すなわち心理学では解析できない主体を相手にすること

長い間フランス哲学のプログラムの半分を占めていた心理学を叩きのめすこと


そして第六には、文学とは異なる新たな哲学表現を創造すること

18世紀に続き、アカデミアやメディアを超える哲学者を再び創り出すこと

その表現と行動で現代の主体を作り変えることが、フランス哲学のプログラムであり、野心である

それは、哲学者を賢者以外の者にすること

瞑想と内省に明け暮れる教授然とした哲学者に別れを告げること

そして、彼らを戦う作家、主体の芸術家、創造を愛する者、哲学的闘士に創りかえることであった




samedi 22 décembre 2012

ブライアン・グリーンさんのダイナミックな対談を愉しむ


The Hidden Reality: Parallel Universes and the Deep Laws of the Cosmos (2011)


初めてブライアン・グリーンBrian Greene, 1963-) さんの話を聴く

お互いを持ち上げる対談ではなく、アイディアがぶつかり合うダイナミックな対談だった

ミクロの世界だけではなく、ここで出ていたマクロの世界も日常感覚では理解できないところがある

グリーンさんも指摘していたが、日常感覚がこのような話を理解できるようには進化してこなかったのかもしれない

われわれの生存には必要なかったからである

これから進化しないとも言えないが、それを待つこともできない

そんな世界にお構いなしに生きることも可能だが、理解したいという気持ちは湧いてくる


文化の違いがはっきり見えるテンポの良い、刺激的な対談であった


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関連記事

Stephen Hawking さんの "The Grand Design"、あるいは量子論的存在論 (2010-10-02)




samedi 15 décembre 2012

免疫学会講演に対する感想をいただく


先日、神戸で開かれた免疫学会で 「免疫を説明する」 という演題で話をさせていただいた

 免疫学を哲学する、とでもいう内容である

 このような話をする時いつも気になるのが、現場の科学者の反応である

科学者や科学という営みに何らかの刺激を与えることができないかという願いがあるからだ

哲学という領域に閉じ籠もっていたくはないということでもある



講演の後にコメントをいただいた武田昭様にお礼のメールを差し上げたところ、以下のような文章が届いた

インターフェースから語りかけたいという考えの持ち主にとって嬉しいメールであった

これからの研究者にとっても有益なメッセージが含まれていると考えたので、以下に転載したい

転載を許可していただいた武田昭様には改めて感謝したい


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矢倉英隆 先生
メール拝受。ありがとうございます。   
神戸の免疫学会における先生の御講演、大変、感銘いたしました。
私は臨床医ではありますが、長らく、免疫学領域の研究に携わって参りましたので、免疫学の根幹が、いわば哲学的な発想に起源をもつことに、いかばかりかの理解を持つ人間ではあり、このたびの先生のお話に、とても魅了されました。

近年の、実利的・物質的な研究が隆盛を極めている日本の免疫学の現状を見ますと、ややもすれば、大局的・俯瞰的な視点が希薄になってしまっているのではないかと、危惧する者の一人です。

とくに、今の免疫学会における若い研究者の方々の発表の中には、細かい実験Dataは豊富ながら、しばしば、その研究の座標軸が判然とは見えず、したがって自分たちのおこなっている研究の位置づけに対する意識が(それゆえにパッションが)、なかなか伝わってこない場合も少なくないように感じています。
かつての日本の免疫学を推進してきた多田先生たちの世代、いわば研究者としての品格をもつカリスマ的な先達が、一線から姿を消していることも要因の一つかも知れません。

こうした変遷する時間軸の中で、今回、矢倉先生のレクチャーが、本学会で披露されたことは、大変意義深い歴史的イベントであると、実感しております。
私の浅薄な研究生活の中で、恐れながら、免疫学ならびに免疫学研究の、他の分野には見られない醍醐味は、その複雑性・多様性を包含するシステムの普遍性を求めるところにあるのではないかと、感じております。
そこに、人間的な、あるいは形而上学的な、思索というものの入り込む素地が存在するのではないかと思っております。

矢倉先生の御講演によって、日本において、さらに多くの若手研究者が、免疫学の、本来の魅力と、その広い影響力に開眼し、これからの本邦の真の免疫学の発展に参画し貢献してくれることを願っております。

先生のますますのご活躍を祈念いたします。

武田 昭 
国際医療福祉大学病院 アレルギー膠原病科
聖路加国際病院 アレルギー膠原病科*(非常勤)




jeudi 6 décembre 2012

免疫学会で変化の兆しを感じる


今朝は気持ちよく晴れ上がってくれた

空は晴れても晴れない心

そんな状態で朝を過ごす

最後は、ぶっつけ本番ということにしてホテルを出た


始まる前、座長の労を取っていただく善本知広先生(兵庫医大)と食事をしながら歓談

科学、芸術、日本などの大きな世界を考えることの魅力について話されていた

最近、大学の40周年記念に藤原正彦氏を招いての講演会があったとのこと

興味深いお話が聴けたようである


会場に入ると、多くの方が参加されていて、いつものように驚く
 
不安定な時代に何らかの指針を哲学的な話に求めるということなのか

あるいは、日々の営みから少し距離を取って考えてみたいという欲求の表れなのか

いつも責任のようなものを感じるが、あくまでも院生のレベルなのでその効果は極めて疑わしい


わたしの話の方は、やっとのことで時間内に収まった

ということで、残念ながら質疑応答の時間が取れなかった

こちらとしてはいろいろなクリティークをいただきたかったのだが、致し方ない

ただ、終了後に何人かの方から貴重なご意見をいただいた

今の科学の流れに疑問を持っておられる方が少なくない

また、東京での会SHEについても紹介したが、興味を持たれる方がおられた


会場は、これまで以上にこの領域の話を落ち着いて聞いてみようという空気で溢れていた

もの珍しい話に触れるという雰囲気が消えているのである

学会も成熟期に入り、会員の求めるところが少しずつ変容しているように感じた

「こと」 は最後には哲学や思想に行き着く

もしそうだとすれば、今進行しつつある変容は望ましいものなのかもしれない



mardi 4 décembre 2012

神戸大学での講演終わる

 寺島俊雄、的崎尚、久野高義の各氏 (いずれも神戸大学)


12月3日(月)、夕方から神戸大学医学部で大学院修士と博士を対象としたコースで講義をした

講義自体はオープンだったようで、学生以外の方の参加も見られ、わたしの想像を上回る人数であった

1時間ほど、科学に内在する哲学について概説した後、これからの知のあり方についての私見を述べた

その後、質疑応答になったが、残念ながら教員の方からの質問がほとんどであった
 
例えば、

1) 日本の哲学が用いている言葉の難解さについてどう思うか

(どうして誰でもわかる言葉を使わないのかということ)

2)  日本とフランスにおける哲学の浸透の程度に違いはあるのか

(日本は本当に哲学のない、哲学のできない国なのか)

3) 科学と哲学の関係についての分析はあったが、科学者は哲学とどう向き合えばよいのか

4) わたしはどのような方向性の哲学で科学に向かおうをしているのか



講演終了後、冒頭の写真のお三方と久しぶりの歓談となった

今回声を掛けていただいた寺島氏に昔同じ領域だった的崎、久野の両氏が加わって愉快な時間となった

ただ、お三方ともわたしを見る目に若干の濁りと歪みがあるように感じたが、錯覚だったのだろうか


歓談の場となった中華料理店 SAY YAN


久野氏からご自分のブログ 「takのアメブロ 薬理学などなど。」 に記事を掲載されたとの連絡が入った




dimanche 25 novembre 2012

神戸大学と免疫学会での講演予定


今回の日本滞在では、以下の2つの講演をすることになっている


 「哲学から見たこれからの科学」
"Science for the 21st century -- A view from philosophy"
先端医学トピックス」 シリーズ
神戸大学大学院医学研究科
(2012年12月3日 17時~)


免疫を説明する
"Explaining immunity"
第41回日本免疫学会学術集会
関連分野セミナー
神戸国際会議場
(2012年12月6日 13時~)


科学や免疫学を哲学の視点から見直した時に見えてくる景色について語る予定である

そこから広がるこれからの知のあり方についての現時点での考えにも触れてみたい

さらに考えが熟して来ることを期待しての試みになる



jeudi 8 novembre 2012

メタフィジークについての言葉


MK2のリブレリーでのこと、題名が隠れた小さな本を見つけ、取り上げる

どこかに繋がる扉がそこにあるのではないかという、いつもの期待とともに

そこにあったのは、アンドレ・コント・スポンヴィル(André Comte-Sponville, 1952-)さんの La philosophie

クセジュで『哲学』として訳されている

ざっと目を通しただけだが、哲学の捉え方がしっくりくる

 こちらに来てから気になっているメタフィジークについて、こんなことを言っている



哲学するとは、知り得ることを超えて考えること

形而上学をするとは、考え得る限り、考えなければならない限り考えること

知っている以上のことを言わないのだとしたら、哲学を諦めて科学をやるしかない

知り得ることを対象にするのが科学で、知り得ないことを対象にするのが形而上学だからだ

 哲学を止めることは、科学がわれわれに何を教え、何を知らせないのかについての自問も拒むことになる

メタフィジークの放棄は、何ものも齎さないのである




mardi 6 novembre 2012

メタフィジーク、あるいは不可能への愛


哲学が何たるかも知らずに、あるいはそれが故にこの領域に入ってきて早5年が過ぎた

科学の領域に浸りきっていた時、わたしの辞書には哲学という言葉はなかった

最後になり浮かび上がってきた「形而上学」という言葉

その時、この言葉が一体何を意味しているのかのイメージさえ湧かなかった

そもそも科学と哲学がどのような関係にあるのかも漠としていたのだ


思考だけの世界、メタフィジークの世界とはどんなものなのか

科学という具体的な世界にいたためか、それまで見たことのない世界に興味を覚えたのだろう

それまで使ったことのない頭の部分を使ってみたくなったのかもしれない

もちろん、科学においても思考に重点を置く道はあるだろう

しかし、現代ではその実践は困難を極める


5年という短い時間ではあるが、以前に比べるとイメージがはっきりしてきたように見える

これまで科学についてリフレクションする哲学をやってきた

比較的具体的な対象がそこにあるので、科学をやっていた者にとっては入りやすい

そこから先はこれからの問題になるのだろうが、、、

哲学と言えども専門化が進んでいる現在、他の領域でも状況は同じではないだろうか

そこでは哲学本来の営みであるすべての学問を包み込むことが難しくなっているように見える

それを目指すのが、おそらくメタフィジークという領域になるのだろう


先日のこと、もう4年前になるマスターの時のカイエを読み返していた

その中に、記憶には残っていないこんな言葉を発見した

「メタフィジークとは、不可能への愛である」

本質を言い得ているように見える

力を与えられるような言葉でもある


今、専門の哲学に身を置いているが、そこを超えようとする不可能への愛はまだ燃えている




lundi 5 novembre 2012

日本免疫学会ニュースレターのエッセイ

Pr. Alain Prochiantz
Collège de France)


本日、日本免疫学会から新しいニューズレターが届いた

その中に、以下の小さなエッセイを書いている


JSI Newsletter 21(1): 32, 2012

 お暇の折にでもご一読いただき、ご批判をいただければ幸いです




vendredi 19 octobre 2012

自分にとっての世界の全体をどこに見るのか


自分が投げ出されているこの世界

その全体をどこに見るのか

人それぞれだろう

家族、仕事場、仕事社会、地域社会、国、そして所謂世界

人は自ら見ている世界の中で力を尽くし、幸せを求め、認められようとする

先日のヘーゲルさんの言では、そこに真の自由はない

 しかし、この地球を超えた世界がその人の世界の全体だと仮定したら、一体どうなるだろうか

その時、自分を見ているのは自分しかいなくなる

自らの内なる基準に合わせて、もう一人の自分が自分を評価することになる

突き詰めると、その人間だけが残る

何か本質的なもの、精神、思惟に行き着く

ヘーゲルさんに肖れば、その時、精神は自らに帰還する

自分が自分を振り返ることから意識が生まれ、そこに絶対的自由が訪れる

視線はいつも遥か彼方に向かい、同時に内に向かっているのである

それは高貴な生き方かもしれない

それこそが哲学的生き方なのかもしれない

そこまで行かなければ、すべては虚しいのではないか

そんな想いとともに目覚めたパリの朝




この文章の「自分」を「あなた」に置き換えてみる

すると、全体の印象がガラリと変わり、響きがさらに広がりを見せるように感じられる




mardi 16 octobre 2012

理性的に 「こと」 を振り返る時、完全な自由が訪れる


何か「こと」があった後、カフェに落ち着く

そして、その「こと」を振り返る時、至福の時が訪れる

それはなぜなのか、不思議に思っていた

ヘーゲルさんはこんなことを言っている
「精神の自分自身への帰還が、精神の最高の、絶対的目標だ。・・・このことによってのみ精神は自分の自由を獲得する。・・・思惟のうち以外の如何なるものにおいても、精神はこの自由に達しない。例えば直観の中、感情の中では、わたしは規定された自分を見出すのみであって、私は自由ではない。私が自由であるのは、私がこのわたしの感覚に関して、やはり意識を持つ場合である。・・・ただ思惟においてのみ、あらゆる外的なものが透明となって消え失せるのである。精神は、ここで絶対的自由である。理念の関心、即ち哲学の関心は、この表現によって言いつくされている」 

わたしなりに言い換えると、こうなるだろうか

外から情報が入ってくる

それに直ちに反応するのが感情である

それに対する感覚的に生まれる考えのようなものは直観と言えるだろう

そこに留まる限り、人は自由ではありえない

それはその状況に制限されているからである

外からの刺激に対して感じたものを理性的に振り返ることにより意識が生まれる

この作業は思惟と言えるもので、この思惟がなければ意識は生まれない

生の現実から得られた情報をリフレクションすることを思惟と言っている

この過程によって初めて現実の制限から逃れることができ、自由に達することができる

それこそが哲学の本質である


 カフェでの時間は、まさにこのリフレクションの時間に当たることになる

気付いてはいなかったが、これが自由の感覚を呼び込んでいたのかもしれない

それこそが至福の感情を生んでいたのかもしれない


そんな想いが湧いてきた相変わらずの曇りが続く朝のバルコン




dimanche 14 octobre 2012

アラン・バディウさんによる哲学を聴く



アラン・バディウさん(Alain Badiou, 1937-)のお話を聴く

哲学と実証主義(positivism)とニヒリズムの関係について

以下に、聴いたままのポイントを

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哲学は知識か

科学はそうだろうが、哲学はおそらく違うだろう

知識には対象があり、対象との間に距離がある

哲学は対象と知識という関係を持っていない

哲学は知識でも、対象でもない

哲学自体が疑問なのである

ソクラテスの言葉、「わたしの知っていることは、わたしが何も知らないことである」

否定から始まっている

何も存在しないことを知り得るのか

存在しないものについての知識はない

哲学が知識でない理由がここにもある

"to be" と "to exist" の間にある距離

これこそが哲学的問題である

哲学は対象と知識には還元できない

実証主義は対象、知識だけを扱う

それは分析的な視点であり、科学である

実証主義はすべてに客観的であることを求め、哲学に対しても例外ではない

すべての科学に共通する科学の本質を問うという視点は科学にはない

それは "being" の問題で、個々の科学の中の問題ではない

分析的視点に立つと、否定から始まるものには向かわない

"existing" にしか向かわない



オントロジー (存在論)とは

"to be" と "to exist" の間にある距離を問題にするもの

知識でないとすれば、継続はない

知識は現状を伝達していく

反復であり、継続であり、蓄積である

知識には対象があるからである


哲学は継続できない、常に始まるのである

すべての哲学者は始める

どのように始めるのか

過去の哲学者の蓄積を示し、そこから続けるように始めるのではない

過去の新しい解釈から始めるのである

否定から、無から始める

対象から、知識からは始められないからである

何も知らないとは、無とはどういうことか

それは全くの主観的な経験である

原始的な負の経験である

対象(客観性)のない主観性

デカルトの場合は、絶対的懐疑であった

それは主観的な世界の破壊

理性的なものではなく、実存的な経験であった

 キェルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)もハイデッガー((Martin Heidegger, 1889-1976)も同じ

 ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」も同じ問いである

デカルトは絶対的懐疑から経験そのものに至った

対象としての主体(自己)に至った

無から存在の肯定に至ったこの過程こそ哲学の勝利であった


ここで勝利できなければ、ニヒリズムに陥る

主観的な経験から出発するものの無から抜け出すことができない

あるいは、あるがままの世界を否定して無に留まる

そして、知識には意味がないとする

ニヒリズムは哲学の敵であり、実証主義の敵でもある

もう一つの哲学の敵は実証主義である

すべての重要なものは知識であるとする

哲学をナンセンスであり、夢想であると揶揄する

哲学は実証主義でもなければニヒリズムでもない

ただ、初めはある意味ではニヒリズムである

負の経験があるから哲学は真剣なのである

問題は、最初の経験を超えられるかどうかである

そこを超えることができると、最終的には知識に還元されることになる

そこには決意が求められる

哲学は実証主義ともニヒリズムとも戦わなければならないのである



哲学は音楽の調性、音質 (tonalité) を聴くように読むこと

偉大な哲学にはニヒリズムや実証主義の要素が混じっているからである

それを聴き分けること


 
負の経験から出発して肯定にいたる運動

0 → 1

これがバディウさんの哲学であった







samedi 22 septembre 2012

第4回 「科学から人間を考える」 試みのお知らせ


The Fourth Gathering SHE (Science & Human Existence)


テーマ: 「脳と心、あるいは意識を考える」

今回は、哲学と科学との交わりが特に強い領域について考えることにしました。19世紀末、ドイツの生理学者エミール・デュ・ボワ・レイモンは世界の9つの謎を挙げ、その中の3つに関しては人間はこれからも知ることはないだろうとの考えを発表しました。その中の一つに意識の問題が含まれています。脳内の物質の物理化学的変化から非物質である精神活動がどのようにして現れるのか。歴史的にはデカルトが明確に分けた空間を占める物質としての身体・脳 (延長実体)とそれとは重ならない非物質としての精神・心(思惟実体)との関係は、一体どのように考えられてきたのだろうか。最新の科学の成果と合わせて考える予定です。

2012年11月29日(木)、30日(金) 18:20-20:00
同じ内容です

会場: カルフール会議室 (定員15~20名)
Carrefour

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1
電話: 03-3445-5223


参加費 
一般 : 1,500円 (コーヒー/紅茶が付きます)
高校生・大学生: 無料 (飲み物代は別になります)


会終了後、懇親会を予定しています。
この試みを始めて1年を迎えることになります。
皆様の率直なご意見を伺うことができれば幸いです。
参加を希望される方は、希望日と懇親会参加の有無を添えて
hide.yakura@orange.fr まで連絡いただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。




samedi 15 septembre 2012

神経心理学会での教育講演を終える

今福一郎 (横浜労災病院)、西川隆 (大阪府立大学)、武田克彦 (国際医療福祉大学) の各氏


この世界、何が起こるかわからない。なぜ、いま、ここに、わたしがいるのかわからないという感覚に陥ることがある。昨日はまさにそれであった。何と日本神経心理学会という学会で教育講演という大役を担わされたのである。学会長である武田克彦氏からのお誘いであった。

吉本隆明氏だっただろうか、何事も10年やればプロですよ、とのことだが、その伝で言ってもまだ半人前。常人の感覚では考えられないお誘いであったが、学問の背景も知らない中、引き受けた方も相当なものである。学生に頼むのだから、それは頼む方の責任だとでも思ったのだろうか。いくら半人前だとしても、知を愛する語りである哲学にお誘いする営みに躊躇があってはならないと感じたのか。

お誘いを受けてから折に触れ、この学問を取り巻く哲学的問題について考えていた。一番困ったことは、会員の皆様の頭の中が全くわからないことであった。自分の領域であれば、ある程度の想像がつくので話のツボのようなものがわかるのだが、それができない。結局、会場に向かう寸前まで苦しむことになった。

お話は40分と言われいてそのように準備したのだが、結局10分以上オーバーしたのではないだろうか。特別講演以上の時間を頂戴することになった。話始めてこれまでになくゆっくり話していることには気付いていた。ただ、それほど気にすることもなく続けていた。そして予定の半分を経過した頃、事の深刻さを把握。時間内にはとても終わりそうにないのだ。座長の労を取っていただいた八田武志先生(関西福祉科学大学)に確認すると、実に寛大に対応していただき、驚く。その日の最後だったこともあるのか、ありがたく、そして心置きなく話し終えることができた。オーガナイザーの皆様には感謝しかない。

この日、武田克彦氏の会長講演、佐伯胖氏(青山学院大学) の特別講演があり、教育講演へと続いた。両氏の講演内容と繋がるはずもないと思っていたわたしの話が繋がってきたのには、心底驚いた。両氏が語る共感 (empathy) の重要性。診療にはもちろんのこと、植物状態からの帰還にも驚きの力を発揮するという。そんなことなど頭になかったわたしの話の中に、そこに繋がるポイントがあることに気付く。それは佐伯氏の語るネガティブ・ケイパビリティ (negative capability) へとも繋がるものであった。

それから 「detachment から personal participation へ」。これは日常だけではなく、これからの学問のあり方にも関わるのではないだろうか。最後に郷田棋士を引いて次のように締めくくられた会長講演。わたしがこのお話を引き受けた時に心の底にあった気持ちと重なるものを感じていた。
「仕事に出会ったことを感謝し、その仕事に全身全霊で打ち込み、その素晴らしさを知ってもらうことが使命」
話を始める前、学生時代に机を並べていたF氏を会場で見かける。長い時を経ての思いもかけない再会となった。わたしの話を聴くためだけに来られたとのことで恐縮すると同時に、ありがたく感じる。

会終了後、同じく教育講演をされた若き日から哲学に打ち込んでこられたという西川氏、さらに今福氏を加えて一日を振り返る。その時やっと、今回の訪日の肩の荷が下りたように感じた。hectic と形容するしかない一週間であった

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今日の会場でのこと、予期せぬ出会いがあった。昨日の講演で、医学概論を始められた澤瀉久敬氏(1904-1995)の言葉について触れた。最後の最後に入れたスライドだった。その名前を見て昔の記憶が蘇ってきたとのことで、大阪でお仕事をされている方からお声を掛けていただいた。お父上が澤瀉氏のお弟子さんに当たり、子供の頃、澤瀉氏からの電話を受けたことも思い出されたようである。やはり、この世界、何が起こるかわからない




vendredi 14 septembre 2012

国立感染症研究所での講演終わる


昨日は国立感染症研究所へお話をするために出かけた

アメリカ時代からの友人であるK氏、学会でわたしの話を聴き興味を持たれたというオーガナイザーのA氏のお誘いで

現場の科学者を知を愛する語りである哲学へお誘いするためもあり、お引き受けした

国の研究所なので、国の医療行政に寄与する仕事でなければ受け入れられない状況とのこと

目的が決まった研究、さらに業務も加わる

わたしの研究スタイルとは相容れないものがあり、耐えられそうにない

研究そのもののあり方について、立ち止まって考える人間が出てきてもよさそうなのだが、、、


その状況はある程度予想できたので、ヨハネス・ケプラー (1571-1630) の考えについても触れることにしていた

彼は科学を創造された完璧な世界について瞑想し、自らの精神を高めるための手段と見ていた 

 物を中心に置く考えから離れ、本質的な問いを考えるための道であるとも見ていた

 経済的な価値ではなく、音楽や絵画と同様の美的価値の追求こそ科学であると考えていた

つまり、突き放した客観的態度で臨むのではなく、精神を含めた全身が関わるような営みとして科学

心身分離の激しくなっている21世紀ではなかなか受け入れられなくなっているのだろうか

今の状況について一歩引いて考えることはせず、流れに身を任せているだけになっているのだろうか


そういう環境なのでK氏はどの程度の参加者がいるのか心配されていたようだが、ご本人の予想は超えていたとのこと

この日は村山庁舎ハンセン病研究センターとの三元中継を予定していたようだが、都合で村山庁舎との二元中継となった

それにしても、このような話に興味を持たれる方が多いということに驚かされる

その期待に応えることができたのかは、いつものように心許ない

話の後のディスカッションでもたくさんの質問が出てきて、こちらの方が刺激を受けた

 このような活動をしていると、科学と社会との接点で仕事をされている方とのお話も抵抗がなくなる

と同時に、お互いの間に引力が働くように感じる

いつのことになるのかわからないが、日本でそのような方向に歩み出すことはあるのだろうか


会場では思わぬ方々と顔を合わせることになった

研究領域が一緒だったO氏とM氏、昔の研究所、研究室で一緒だったダブルW氏など

日本に住んでいれば驚くことなどないはずなのだが、遠くにいてそのあたりの繋がりが飛んでしまったようだ


夜はK氏、A氏、M氏の他、部長をされているK氏、退官後広報を担当されているF氏の皆様が加わり、夕食を共した

話題は研究内容そのものではなく、研究体制の問題、科学論、文化論、そして現世のお話が出たように記憶している

最後に残るのは、そちらの問題になるのだろうか

大いに楽しませていただいた

皆様に感謝したい



lundi 20 août 2012

The New School のシンポジウム "Does Philosophy Still Matter?" を観る




37℃を超える日が続いている

暑気払いに、ニューヨークの The New School で行われたシンポジウムを観ることにした

「哲学にまだ意味はあるのか」
 "Does Philosophy Still Matter?"

The New School で教えているジェームズ・ミラーさん (James Miller)の本が出たのを記念しての昨年の会らしい

Examined Lives: From Socrates to Nietzsche (Farrar, Straus and Giroux, 2011)

実はこの本、今年の春、パリの英語本リブレリーで手に入れ、少しだけ読んでいたことを思い出す

予想もしなかった繋がりが現れ、この会が身近に感じられるようになる


他のパネリストは、以下の通り

サイモン・クリッチリーさん (Simon Critchley): The New School で教えている哲学者

アンソニー・ゴットリーブさん (Anthony Gottlieb): 元 The Economist 編集長、哲学の歴史に関する著作あり

The Dream of Reason: A History of Philosophy from the Greeks to the Renaissance (WW Norton, 2002)

アストラ・テーラーさん(Astra Taylor): スラヴォイ・ジジェクなどの現代哲学者のドキュメンタリーを制作

コーネル・ウェストさん (Cornel West): プリンストン大学で教える哲学者、活動家

モデレーターは元 Harper's Magazine 編集長のルイス・ラパムさん(Lewis Lapham


哲学をどう見るのかに関しては、特に驚くことはなかった

ただ、表現の仕方や問題の切り取り方には興味深く参考になることがあった

特に、コーネル・ウェストさんの切り口には面白いところがあった


改めて強調すべきは、哲学を専門家の中に閉じ込めておくのではなく、その意味を外に向けて広く語りかけること

ペーター・スローターダイクさんの言を俟つまでもなく、哲学にはその中に他者を誘う使命があるからでもある


もう一つ、不思議な繋がりが現れた

昨年6月、学会でニューヨークに滞在した折、その昔働いていた研究所を訪問した

Sentimental walk in Manhattan and talk with Dr. Hammerling (2011.6.20)

その時、ヘメリング博士の口からニューヨークにもThe New School という哲学のいいところがあると聞いていたのだ

こういう具合に過去が蘇ってくる時、いつものように少しだけ涼しい風が吹いてくるのを感じる




vendredi 17 août 2012

東京での二つの講演


9月の一時帰国では、9月11日、12日の 「科学から人間を考える」 試みの他、2つの講演が予定されている


ひとつは、東京で開かれる第36回日本神経心理学会

9月14日(金)夕方からの教育講演

演題は、「神経心理学を哲学する」 
"Philosophical problems in neuropsychology"

要 旨:
神経心理学の臨床を症状の記載に始まる器質的変化の同定とその修復を目指す学問であると定義すると、いくつかの哲学的問題が現れる。第一 に、症状の記載に関わる言語の問題。第二に、ある精神・心理症状から脳内の原因がわかるのかという相関性(correlation)と因果性 (causality)の問題。第三に、その精神活動は本当に特定された局所だけに因っているのか、他の領域の関与はないのかという部分と全体の問題。第四に、脳内の物質の物理・化学的変化から非物質である精神活動がどのようにして現れるのか、歴史的にはデカルトが明確に分けた空間を占める物質としての身体(延長実体)とそれとは重ならない非物質としての精神(思惟実体)がどのように影響し合っているのかを問う所謂「心身(心脳)問題」。第五に、対象者の症状のどこからを異常と見做すのかという正常と病理の間にある本質的な相違、および病気の治癒をどのように捉えるのかという問題。そして第六には、病気を契機として現れるそれまでの日常から乖離した新しい状況に人間がどのように関わっていくのかという人間と環境の問題などが考えられる。これらの古くて新しい問題は神経心理学が内包するだけではなく、医学全般にも当て嵌まる大きな広がりを持つもので、そこには人類の膨大な思索の跡が残されている。この発表では、それぞれの問題点を概観した後、心身(心脳)問題、正常と病理の問題、さらに人間と環境の関係をどう捉えるのかを中心に考察を進め、現場に身を置く皆様のご批判を仰ぎたい。

もうひとつは、9月13日(木)夕方からの国立感染症研究所における学友会セミナー

演題は、「なぜ科学に哲学が必要になるのか」
“Why is philosophy needed to science?”

要 旨:
古代ギリシャから17世紀に至るまで科学と哲学は不可分の関係にありました。その後、新たな方法を得た科学が哲学から自立する過程で、思弁だけを方法論とする哲学を科学から排除することになります。明治期の日本が西洋の科学を導入する際、国を興すために必要となる技術の導入には力を入れましたが、科学を生み出し支えてきた文化や精神的側面は見過ごされました。その傾向は第二次大戦から現在に至るまで続いています。昨年の3.11以降、日本の科学の惨状が白日の下に晒されましたが、その背景にもこの問題があるように見えます。この発表では、科学と哲学との関係を振り返りながら、科学をより十全なものにするために不可欠になる哲学的視点の重要性について考えます


この領域に入ってから、できるだけ多くの方に哲学的視点の重要性を知っていただきたいと思っている

ペーター・スローターダイクさんを俟つまでもなく、哲学にはその中へ他者を誘う使命があるからだ

偶の帰国は、そのための貴重な機会になっている