lundi 30 janvier 2012

ミシェル・オンフレさんによる哲学の二つの道


先日のリブレリーでミシェル・オンフレさん(1959-)の最新本を読む。カミュ(Albert Camus, 1913-1960)とサルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)の対立を取り上げ、サルトルに賤しめられたカミュの復権を熱く語っている。冒頭には ニーチェのこの言葉が引用されている。

J'estime un philosophe dans la mesure où il peut donner un exemple.

「わたしは一つのモデルを示すことができる人間を哲学者と見做す」


この本の中でこれまでに何度か取り上げた哲学の二つの流れについて、別の角度から説明されている。オンフレさんによると、こうなる。哲学にはデンマークとプロセインの二つ流れがある。前者はキェルケゴール (Søren Kierkegaard, 1813-1855) の生きることと関連した哲学で、後者はヘーゲル (Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831) に代表される理性や体系を重んじる哲学である。キェルケゴールの流れにカミュがいて、ヘーゲルの流れにサルトルを位置付けている。オンフレさんはもちろんカミュ派である。

キェルケゴールの流れは古代哲学と同質のものを求めている。人生に意味を求めている人に対して、アイデンティティを確立し、自己を創造するために必要となることを考える。したがって、哲学を若者や専門家ではない人に伝えようとする、分かち合おうとする。読まれ、理解されるために書こうとする。明晰な言葉と簡潔なスタイルで。モンテーニュデカルトディドロオーギュスト・コントベルグソンバシュラールの系譜に当たる。

一方のヘーゲルの流れは思想の可能性や知の形式に注意が向かう。その過程で世界の多様性、生命力とその開花が抑えられる。一歩下がって現実を概念の枠の中に入れようとするからだ。でき上がった城は巨大だが、そこに人は住めないのだ。カントに始まるドイツ観念論やプロセインの大学は難解な世界を作り、易しい言葉で書かれたものを表面的だと見做した。この流れに抗して、カミュは自らを哲学者と呼ばなかったのである。サルトルの600ページに及ぶ 「存在と無」 を一体誰がすべてを読み、理解できたと言うのか、とオンフレさんは問うている。

最初のブログでも触れたショペンハウアーの 『パレルガとパラリポメナ』 にあるように、哲学教師は哲学で生きるが、哲学者は哲学を生きる。そのどちらかである。教師は他人の思想を分解し、料理し、講堂で繰り返し吐き出す。時間割に従順に従う公務員のように。哲学者はよりよく生きるために考える。行動を考え、読み、瞑想し、書く。オンフレさんはカミュこそ哲学者の名に値する作家だと言いたいようだ。

太陽のもと新しきもの・・・ RIEN DE NOUVEAU SOUS LE SOLEIL ? (2005-12-30)


この本は今年初めのル・ポワンでも12ページに亘り特集されていた。
オンフレさんはいつもセンセーションを巻き起こす方のようである。




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